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波動についての疑問が少し解決した

小さい頃、割と真剣にピアノを習っていて、いつの間にか大学の修士をピアノ科で修了したのだが、その頃漠然と感じていたことが実は昨今あちこちで聞く「波動」というものだったのではなかろうかと、最近思っている。

演奏をする時、体の奥の中心の方がしっかり「動いて」そこから内臓を通って音が発せられるのが、私がピアノを弾いていると言う感覚だった。
当然のことながら、ピアノは指で鍵盤を叩いて音を鳴らす。指の動きが鍵盤と繋がっているハンマーに伝わり、それがピアノの弦を叩いて音が鳴るのだ。だから私の体の内部は音を鳴らしていない。歌を歌う人ならいざ知らず、ピアニストは人体を直接的に鳴らしてはいないはずである。にもかかわらず、私は体の中心で音を鳴らしていると言う感覚を強く持っていたし、それは誰に教わったわけでもなく、勝手に自分の心の中から湧き起こっていた妄想のようなものだと思っていた。

「波動」の話をあちこちで読むと、私はどうやら自分の「波動」を演奏に活用していたらしいことがわかる。楽器を鳴らす人は、大体皆、そんなものなのだろうか。

最近偶然古書店の棚で目にして買ってきた本が『幸せ波動、貧乏波動』(PHP研究所)と言う斎藤一人さんの著書だった。これを読んで私はなおさら、小さい頃から無意識に波動を使っていたことを理解できた。

さらにこれまでなんとなく疑問に感じていたことも、この本が解決してくれた。文章での表現と声での表出についてた。

「波動」や振動などの話を読んでいると、大体が対面でのコミュニケーションが例にあがっていることが多いように感じる。職場や学校での人間関係や、実際の仕事のご縁についてなどは確かに説明する時にもわかりやすいからかもしれないし、実際「波動」を実感する練習としても実践的で理解しやすいことなのかもしれない。

ただ私は以前から、対面での対人関係だけではなく、文字として書かれた文章や、オンライン上の動画、音声のみの何かでも、リアルに対面した時と非常に近い影響を受けるのではないかと感じることが度々あったので、少しモヤモヤしていたのだ。書かれた文字から書いた人の気のようなものを受け取ってしまうことなんて、あり得るのだろうかと半信半疑だったのだが、明らかに体が拒否反応を起こしてしまう文というのも実際あって、これは何なのだろうかと思っていた。

『幸せ波動、貧乏波動』によれば

ここは波動の世界だから、機嫌よく書いたのか、心配しながら書いたのか、疑いながら書いたのかで、まったく未来は違ってくる。

『幸せ波動、貧乏波動』p.132


これは文字で願いを書くことについての話の中の一文なのだが、これを読んだ時、これまで私が書かれた文字から感じていたことが、書き手の波動であったことを理解することができた。それは書かれている内容だけではなく、どんな思いで書き手がそれを書いたのかが、文字に載ってしまっているのだ。文章の内容は明るいのに、なぜかドロドロと暗く重苦しいものを感じることもある。特に手書きの文字は波動を伝える効果は抜群である。

声もまた同じようなことが言える。これについては特に「人を感動させる声の持ち主に共通すること」という章立てがされて説明されているのだが、この章は

波動というのはすごく面白くて、声にもそれぞれ波動があるんです。

『幸せ波動、貧乏波動』p.173


という一文から始まっている。

私は声を使ってナレーションをさせていただくこともある。特に最近は美術館での音声ガイドを度々させていただいている。その時にいつも思っていたのは、しゃべるためのテクニックもさることながら、最も大切なのはしゃべっている時の心の中心に何があるか、であった。それはまさに、私が昔ピアノを真剣に弾いていた時に使っていた部分とまったく同じことであり、ピアノを弾いている時と音声で表現をしているときは、私の体感はとても似ているものがあると最近気がついた。
それは自分自身の幼い頃から自然に持っていた体感で、誰かに教えたり伝えたりするのはとても難しい感覚なのだけれど、あえて説明するのならば、この「波動」というものを使っている気がします、ということになるのではないだろうか。

それは特別なことではなく、おそらく誰もが全員、「波動」を使いながら言葉を発して、「波動」を使いながら歩いてい、「波動」を使いながらネットに文章や写真を投稿しているのだろう。私はたまたま、それを幼い頃から強く意識して楽しんできただけなのだと思う。

このnoteのページを、なぜ書き始めたのだったか、時々考える。そして自分の在り方を見直す。私はどうしたかったのか。
最初は自分自身と正直に向き合うだけでいっぱいいっぱいだった。
次第に自己を取り戻すにつれて「本当はどうありたかったのか」を自分に問うようになった。
note用の下書きを長く書いたのに「なんか違う」と思っただけで全文ザクっと消してしまうことも多かった。その時私は一体、何について「違う」と思ったのだろうか。

結局私は、明日が、来月が、来年が楽しみになるような何かを自分のために見つけたかったし、そんなことのヒントが多種多様にこの世に溢れていれば、あらゆる人が幸せになって行けるんじゃないかという空想を抱いていた。

私が行った何かが、世界のどこかの誰かの楽しみを生み出す確率は、数字にしたらとても低いかもしれないが、それでもゼロじゃないのなら、やってみたいと思っていた始まりの日のことを思い出したし、結局今もそれは変わっていないのだ。

自分がとても辛かった時期に、必死にどこかの誰かに助けを求めたくて光を探していた時期も思い出す。
私は今気がついたからには、これまで以上にもっと、何をするにしても、行動や行為と同時に存在する自分の心の本当の在り方つまり「波動」に注意深くなる必要があると感じた。

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MariKusu
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。