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プロフィールを整える方法に悩む

このnoteやその他SNSのトップページに表示されるプロフィール。
このプロフィールをしっかり充実させないとアクセス数が伸びませんよ、なんて言われているらしいのだが、みなさまはこのプロフィールをどのように扱っているのだろう。

かつてバリバリに大手事務所にいた時にはプロフィールに書くべきことは決まっていた。というよりも事務所が決めていた。主に担当している分野と事務所名。以上。
私の場合は女優・MC・ナレーションで、最近出演したドラマやCMの情報を併せて載せる。それだけでSNS上の短いプロフィール欄はぎっちり埋まってしまう。

しかしいざ、自由にプロフィール欄を書いていいよとなると、悩むものである。
職業欄としての肩書きはあってもいいのかもしれないが、それによるバイアスを自分が望んでいるのかは悩みどころでもある。職業欄にあること以外をちょっと挑戦してみると、何をやっているのか分からない人と言われたり(それは逆に望むところでもあるのだけれど)、しかし職業の肩書きがあると人は納得しやすいものらしく、乱暴ながらも話は簡単だったりするので、そこに逃げたくなる時もある。

肩書きはフィルターであり、相手に対して事前に「私のことをそのフィルターを通してみてくださいね」という宣言にもなりうる。それはそれで大変便利なことだし、説明が省けるのかもしれないのだが、果たして本当に私はそれでいいのだろうか、と考え込んでしまう。

このnoteは私が大手事務所に所属していた頃から実は本名で存在していたもので、もしかしたら(というかおそらく)マネージャーさんたちも見つけていたかもしれないのだが、色々な信頼関係を破綻させない程度の存在だったためか、見逃していてくれたような気がする。そんな見逃しは特例中の特例なのだが、その辺りは個人差もあるし、やっている内容にもよるので、なんとも言い難いところではある。もし後輩たちでマリさんができたなら、と思って安易にやり始める人がいるなら、全力でおすすめはしない。

さてここまで考えてみて、「じゃあ私はどう在りたいのさ」と毎度の質問に戻ってくる。それがプロフィールに反映されるべきことなのだろう。例えそれが、マーケティング的にバズらないプロフィールであっても、私が大切にしていることからズレてまでバズらなければいけないのかと考えれば、それは違う。

私はこの2年間、自分にとって本当に大切にすべき軸はどこにあるのかを考えてきた。
これまでバラバラにとっ散らかっていた、自分の思考をそろそろなんとなく中央に寄せてまとめる時が来ている気がすると同時に、それが決めつけにならないように気をつけて自由でありたいとも感じている。

友達と飲み会をしたり、パーティーをしたり、焼肉に行ったり、女子会をやっていたり。そういう社会一般で喧伝される「女子力高め」な話に全く興味がなく、無縁でありたいとすら思っているのに、そういうことを表明するのは難しかった時代が私にはあった。
本当は休日は家にずっと居られるものならいたいし、本を読みたいし、図書館に行きたいし、一人で映画にも行きたい。美術館にも一人で行きたくて、歩き疲れたら展示帰りは買った図録や展示関連で気になった書籍をにんまり見ながら一人でお茶したい。もしくはグリーン車でゆったり座りながらテイクアウトしたコーヒーを飲みつつ、展示を振り返りたい。もちろん一人で。

「そんなことをしていると、孤独死しますよ」なんて知らない他人からたまに言われるのだが、この間読んでいた和田静香さんの本にあった一節があり、私が感じた違和感はこういうことかと腑に落ちた。

町で近隣に住む人たちが集う場所や機会って面倒でも、やっぱりあった方がいい。大磯に行ってつくづくそれを感じるようになった。私も堀文子さんとまではいかなくても「自由でいること」を大切にしてきたけど、ひとりで暮らすのと孤立することは違うはずだ。

『50代で一足遅れてフェミニズムを知った私がひとりで安心して暮らしていくために考えた身近な政治のこと』和田静香(著)p.102

「ひとり」と「孤立」は違うし、「ひとり」と「孤独」も違う。
さらに言えば、「孤独」は悪い意味を纏って使われることが多いようにも思うが、必ずしも悪いものとは言い切れないとも思っている。なぜなら「孤独」の状態で真剣に自分と向き合わねば出せない答えというものもあるはずだと私は思っているからだ。

かつて私も若い時「孤独」のネガティブな側面から苦しんでいた時期があった。誰にも理解してもらえないような気がしていたのだが、今思えば、本当の意味で誰にも理解されていなかったのではなく、自分が理解して欲しいと願っている人たちに伝わらないから「誰にも」と感じていただけだった。

「あの人は孤独な人だ」と他人に判別されることを恐れたりもする。それは「孤独」という単語がもつネガティブなイメージのせいでもあり、「あいつはダメな人間だ」とハンコを押された気分になるからかもしれない。けれど一文字変えて「あの人は孤高な人だ」となったらどうだろう。突然賢者のような雰囲気になる。言葉というのは本当に、文字数と音数を超えた大量の情報を瞬時に伝達するものだと感じる。

「孤立」「孤独」「孤高」

それぞれ「ひとり」である状態を示しているのに、受け取るイメージは全く違う。
言葉とはなんと複雑なものだろうか。

さて話題をプロフィール欄に戻すが、今noteに書いているプロフィールはこのページを作った時から変更していないものである。特段強い違和感もないのだが、ちょっと変えてもいいのかもなと最近は思っている。しかし何を書いたらいいのだろう。プロフィールに家族構成を掲載することに違和感があるのでそれは却下。かといって昔のように職業としての技能を書いて終わりというのもなんか違う。
年内になんとか新しいプロフィールを仕上げたい。確かにSNSマーケティングが述べるようにプロフィール欄をしっかり作ることは重要な気がしている。なぜなら自分が他の方の記事を読むときに、初めての方なら一応プロフィール欄はなんとなくでも見るからだ。
バズるバズらないは完全に無視して、本当に今の自分を伝えられるプロフィールになる文を書きたい。ひらめけ私の脳よ。


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MariKusu
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。