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scene6 サイレントコミュニケーション📒#『私の物語』#自分育て#Find It#私はどうしてお花畑脳に育ったのか。このままでいいのだろうか。
3歳の私を引き取ることに、養母の合意は無かったと思います。「黙って俺に従え」という亭主関白を自負する養父でした。貧しい長屋暮しによその子を一人、食費さえも払われずに引き取ることを養母が大歓迎であったとは思えません。しかも養父は日がなお酒を飲んでいるばかりで、3歳児の私の世話は、殆ど養母に丸投げでした。 養母の私への沈黙は「無視」という虐待だったのだろうか、と振り返る時、そうでは無かったと確信します。 なぜなら養母は、養父とも殆ど話しをしなかったのです。 彼女は私にも養父
scene5 ははそはの📒#『私の物語』#自分育て#Find It#私はどうしてお花畑脳に育ったのか。このままでいいのだろうか。
1 お母さんじゃない 養父母は浅草下町の長屋に住む貧しい内縁の夫婦でした。二人とももともとは富裕な家庭の生まれです。養父は元華族の長男。養母は地元では著名な画家の娘です。(ここでも生まれながらに貧しいのは私だけです笑)戦後身分制度は廃止されましたが、元華族の養父の親戚たちから平民との結婚を反対され、二人は駆け落ちをして、貧しさの中寄り沿って暮していました。 私は鮮明に覚えています。 初めて養母を「お母さん」と呼んだ時のことです。養母に手を繋がれ どこかに出かけるところで
scene4 星の子変格活用📒#『私の物語』#自分育て#Find It#私はどうしてお花畑脳に育ったのか。このままでいいのだろうか。
「親はなくとも子は育つ」 托鉢の旅に出た実父の口癖です。ずいぶん都合の良い話です笑。 生母を無くしてから養父母に預けられるまでの数ヶ月。実父と二人暮しの記憶があまりありません。覚えているのは転んで膝を擦りむいた時に、父が「痛いの痛いの飛んでけ〜」とおまじないを唱えてくれてほんとうに痛みが消えたことです。 普通の家庭では、傷口の消毒をしたり、絆創膏を貼ったりするのだと思いますが (私も自分の子にはそうしました) 手当などはなく自然治癒まかせでした。 風邪を引いて熱が出ても、