名前

ふむふむ、わたしはあなたの名前を知りません それゆえ、あなたのお話は、取るに足りません 

と、その人は言った

彼の着ている服や被っている帽子や履いている靴や座っている椅子、なにもかもが、名のある人や工房で作られたものだ

私にも名前があるし
彼にも名前があるのだけれど

彼にとってなにより関心があるのが、その名前が“知られたものであるか”
もちろん、良い方に

私の名前を知っているのは私の親や近所の人や学校の同級生などで
地面の反対側に暮らす人たちは、その綴りを見ても、なんと発音するかさえわからないだろう

私は名前を知られたいわけではなかったのだけれど
知られていることが前提なのであるならば
それは王様やなんかでない限りは初めからはむつかしいのだから
私は それ を鞄にしまってパチンと鍵をかけ、有名な建築家のつくった椅子から立ち上がり、有名な木を用いて有名な工房でつくられ有名な画家が絵を描いたドアを開け、有名な産地で採れる石の階段を踏んで、外へ出た

名前のない空に名前のない雲が浮かんで名前のない風が吹いていた
そこはとても心地の良い いつもの町だった
私は鞄を持って歩きはじめた
名前のない石畳を踏みながら

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