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餅をつく人

「私さ,結婚したら餅をつく人になりたかったんだよね」

年明け気分の残る家電量販店で,まるで息をするようにその言葉が出たとき,少なからず自分で自分に驚いた。
確かにずっとそう思っていたけれど,口に出すのは,ましてや人に向かって言うのは初めてだった。

餅?といいながら,間もなく私の夫となる人は盛大に杵を振りかざす真似をしたので思わず笑ってしまった。いやそこまで本格的じゃなくて,と言いながら,ずらっと炊飯器が並ぶ列の端っこでこじんまりと展開されたコーナーを見やりながら,もちろん機械だよと言った。
目の前には餅がつける機械が何台か並んでいた。餅をつくだけのもの,全自動の物,ホームベーカリーと兼用の物。まじまじとラインナップを見たのも初めてだったかもしれない。
「買ってく?」と聞かれたけれど,まさか,と言って断った。だって前の日からもち米を浸して,大きな蒸し器で蒸して,ついたら伸ばして,ってやるんでしょう。とてもこれから始まる新生活のなかで描ける風景ではなかった。

私が生まれ育った町は小学校が3つ,中学校は1つ,高校はなくて,広々とした田んぼや畑,そして大部分は森林という立派な田舎だった。
周囲は専業あるいは兼業で農家をしているところが多く,そうではない私の家は少数派だったかもしれない。そのせいか何か収穫物があるとお裾分けをいただくことが多く,例えば夏になると不在時でも幾度となくキュウリやナス,トマトが玄関先に大量に置かれていて,その置き方の癖で「これは○○さんの家から,あれは△△さんの家から」と分かるものだった。
年末には何枚も「のし餅」が届いた。「まだついたばっかりで柔らかいから,固まったら切ってね」と渡される餅は粉で満遍なく覆われていてすべすべでほの温かく,ダルンとしている様子はまるでまだ首の据わっていない赤ちゃんのようだった。渡すやいなやとエプロン姿のおばさんたちはまだ作業に戻るといった忙しない様子で「じゃ,よいお年を!」と言って帰っていった。
まだ切り口に包丁がべったりとくっつくのも厭わず,粉っぽいままのそれを甘辛い砂糖醤油に付けて頬張るのが好きだった。

母の実家でも年末には餅つきをしていた。
前夜からひたひたと水に沈んでいたもち米は真っ白くプックリ膨らみ,我が家では見たことのない大きな蒸篭でもくもくと蒸された。餅をつくだけの緑色の機械に次々と放り込まれ,ピカピカに蒸されたもち米が羽に回されるごとに粒を消していく様子に見入ったものだ。底冷えする昔ながらの台所で大人たちが所狭しとあちこちで湯気を上げている様子を覗いては,年上の従兄弟たちと暗くなるまで遊びまわる年末のひと時は非日常感と高揚感があり,とても好きな時間だった。
残念ながら,祖母の短い闘病とともにその慣例は消え失せてしまった。甘くて懐かしい少女時代の思い出だ。

不思議とのし餅はたくさん届く年とそうでない年とがあった。
ご不幸があったりすると餅つき自体がなくなったり,はたまた私たち子どもの成長とともに関係性が希薄になったりするのか,大人になるころには餅を買う年も出てきた。
「きちんと家庭で作られた餅」に敵うものはないと確信したのもそのころで,皮肉にも初めて「市販の餅」を食したことがきっかけだった。やむなく年末に切り餅を買っていつものように食べたとき,衝撃的だったことをよく覚えている。市販の餅は伸びる。不自然なほどに。そして,なぜかやたら水っぽい。その時に初めて,今まで食べてきた餅がどれだけ餅然としていたのかに気が付いた。

とはいえ,母には今さら我が家だけで餅をつくつもりもなさそうだったし,それを責めるつもりもなかった。でも私は,いつか私自身が1つの台所の主になるようなことがあれば,そのときにはきっと餅をつきたいと心のどこかで思うようになった。
それは,改めて誰かに言う機会もないまま時は過ぎていった。

あの日夫と買いまわった家電に囲まれて始まった新生活は,入籍や結婚式,新婚旅行と立て続けに行われたイベントを経てすっかり落ち着き,1年を迎えようとしていた。結婚しての初めてのクリスマスは,お互いカレンダー通りの勤務ということもあり近場の温泉で1泊して過ごした。だが,帰宅した私は自宅でとんでもない光景を目にする。

枕もとに,餅つき機がおかれているではないの。

デーンと大きな段ボールに,新製品が安い家電量販店の包装紙が熨斗のように巻かれ,リボンまで付けられて私の枕もとに鎮座していたのは紛れもない餅つき機だったのだ。
え?まさかのサンタさん??
何十年ぶりとも分からない胸躍るシチュエーションなのに,それにまったくそぐわない餅つき機の立派なシルエットに私は笑いが止まらなくなってしまった。夫が訳を説明する。

「なんか,餅つき機が欲しいって言ってたことあったじゃん。調べてみたら,今の機械って浸すところから一気にやってくれて,2時間くらいで出来るらしいよ。ホームベーカリーと兼用なのは5合までしか餅がつけないみたいで,多分パンを焼くこともないだろうし,1升つけるやつにした」

この人はいつだってそうだ。
何気ない言葉をよく覚えていて,絶妙なタイミングでそれを与えてくれる。
付き合い始めの頃に寄ったファミレスの入り口に置いてあったピザの食品サンプル(1切れ浮いてるやつ)に私が見とれ,「玄関にこういうのあったら面白いよね」と何とはなしに言ったら初めてのホワイトデーにそれをプレゼントしてくれた。もちろんそれは今でも玄関に飾ってあって,来客をみなギョッとさせている。
仲間内で流行してお揃いで持っていた変なヒーローのペンがいつのまにかお店から消えていて,「なんかなくなっちゃったんだよね,いろんな色が欲しかったのに」と言っていたらどこからかそれを探し出してきてくれたこともあった。

その名も「へっぽこヒーローペン」
全部青いインクだったことが分かった

思いがけずに餅をつける人になった私は,でも,戸惑ってもいた。
翌朝,急いでもち米を買いに行ったが,どのくらいの米がどのくらいの餅になるのか皆目見当がつかなかった。
とりあえず,2人家族なので5合にしてみる。説明書を見ながら,ボロボロもち米をシンクにこぼしながら,ピーピーと機械が鳴けば次の作業に移りとワタワタとしていたが,夫が言っていたように2時間もあれば餅がつき上がってしまった。
伸ばし方が均一でなくて不格好だったけれど,かつてのように粉にまみれたまだ柔らかい餅を砂糖醤油に付けて頬張ると,懐かしい味がした。みっちりとして,米の甘みが鼻腔にまで抜けるような。
私は,餅をつく人になった。こんなに簡単にできるならもっと早くに買えばよかった。もち米は余ったがまた作ればいいだろう。

ところが,次の機会はなかなかやって来なかった。
突然,米の炊ける匂いで吐き気を催すようになってしまった。悪阻だ。

それから9か月たって,長男が誕生した。
その年の終わり,念願の正月用の餅つきをした。母も招待して。
何でもかんでも機械が進めてくれる餅つきに,かつての重労働を知る母は「便利になったものね」と目を丸くした。息子はグルグルと回るもち米を飽きずに見ていた。ついた餅は,義実家と実家,そして我が家で分けて食べた。

それから季節が過ぎ,息子が初めての誕生日を迎える頃のことだ。
誕生から毎日我が家に通っては息子をお風呂に入れてくれていた姑から,それそろ一升餅,という話が出た。
姑は季節の食材を使った丁寧な仕事をする人で,新生姜やラッキョウの甘酢漬けをはじめ,栗ご飯やタケノコご飯など,なんでも手間をかけて作るが,意外と餅つきはしない人だった。
「せっかく餅つき機があるんだったら,一升餅も作ってみたら?」といわれ,一升餅を手作り!?と驚いてしまったが,考えてみれば餅をつく人として至極当然のことのように思えてきた。

市販の一升餅を見てみると,紅白の餅を1つずつ,という昔ながらのイメージとは違い,最初から小分けにできるようにと,紅3つ,白3つというようにコンパクトなものを1升分セットにしているものが多くあって,これなら作れるかもしれない,と思うようになった。
姑にその計画を伝えると,「もち米は買ってくるから」と言ってくれた。

一升餅作成当日,息子は義実家に預け,母を召喚した。
先に充分に水を吸わせたもち米をザルにあげ,2等分する。色が混ざってしまう可能性も視野に入れ,まず白餅からつくとよいとネットでは予習済みだ。
5合分を機械に投入し,蒸す。部屋中に米の甘い香りが充満してきたころにピーピーとブザーが鳴ったので練りのボタンを押し,まずは5合分の餅が出来あがった。ワチャワチャしながら3等分し,どうにか丸める。火傷しそうなくらいに熱い餅を形作るのはなかなか難しい。

次は紅だ。
蒸す時点で耳かき1杯分程度の食紅を少量の水で溶いたものを米に混ぜるという情報があったが,いざ蒸しあがってみても大して色が付いていない。
練りの段階になってもうっすらピンクにしかなっていないので,慌てて追加で色を足した。食紅の扱いは難しい。
同じようにつきあがり,紅白合計6個の餅が完成した。


冷めたところで,粉を払い落とし,濃い目に溶いた食紅を使い,餅に文字を入れる。
ところが想像していたようにうまく文字が餅に乗らない。餅に水分が吸収されるのか,食紅が薄いのかよく分からない。試行錯誤したが,なんとか完成した。


この頃から,私は身内で「餅をつく女」というポジションを確立するようになる。年末ののし餅は私の担当になり,義実家の鏡餅も作るようになった。もち米はすべて義実家から与えられ,餅をつく日には息子は朝から義実家に預けた。餅はほとんど餅つき機が作ってくれるので実質的な私の趣味の時間ともいえた。

ただ,息子が産まれて3年後は,年末でも餅つきを頼まれることはなかった。大晦日,我が家に女児が誕生したからだ。悪阻が長く,また餅つき機はしばらく休養と相成ったが,同じように1歳の誕生日には一升餅をついた。正月用とも兼ねることができるのでとてもいいタイミングだ。
その頃には粉を使わない,ツルっとした仕上げ方がないか模索し,同じ大きさの容器にラップをかけ,その中に餅を流し込んで作成してみた。最初と違い仕上がりの大きさは均一だったが,お皿のカーブとラップの平坦は相性が良くなく,皺が気になる仕上がりとなってしまった。
名前は直接ではなく,シールに印刷することにした。

一升餅を背負わされた子どもの反応というのは面白いもので,長男は号泣に号泣を重ね,まるで虐待を受けたかのような騒ぎだった。一方長女はその重さが気に入ったらしく,まだ歩かない時期だったのにテーブルに手をついて満面の笑みで仁王立ちし,餅を背中から外されると悔しそうに泣いた。

というわけで我が家の一升餅の作成はここで終わった。
購入しても良かったかもしれないが,餅をつく人になりたいという私の長年の夢が思わぬ形で子どもたちとの思い出に繋がり感無量だった。
しかし,ここで話は終わらない。

娘の1歳のお祝いから半年がたったころ,姑から電話が入った。
「東京のKちゃん(夫の弟の子)の一升餅,お願いできる?もうもち米は買ってあるし,東京にもこっちで用意するって言ってあるから」

えええええ待って待ってお義母さん。
義妹という人はフランスで修業した人気パティシエで,選ぶもの何もかもハイセンスな調理師免許保有者。第一子の初めてのお誕生日のお祝いで,考えてることもたくさんあるでしょうよ。
「嬉しいっていってたわよ?それに彼女は餅はつかないでしょう?」と姑は言うけれども,かなり気が引ける。とはいえ,優しい彼女のことだ,お祝い事の申し入れにNOをいうようなことはしないだろう。
「おかあさんから,Kちゃんの一升餅頼まれたけど…本当に私で大丈夫?プロにお出しするの怖いんだけど…」を正直な胸の内を義妹にラインする。すぐに「嬉しいです!お手間をおかけしてすみません!」と可愛らしい返事が来た。何と出来た嫁なのだろうか。彼女には,とりあえず全力は尽くすけれど,そちらでも気に入ったものをちゃんと用意して,後悔のないようにしてね,と念を押し,作成を引き受けることにした。

私の餅つきのキャリアも足かけ6年が経過していた。
最小限の粉を使いながら,丸い餅も粉っぽくならずにすべすべに仕上げるコツも掴んでいた。鏡餅作りの賜物だ。
今回は丸ではなく,何か形づくることを思い描いた。お祝い事だし,女子だから花がいいかもしれないと考え,型を用意した。
白を3つ,紅を3つ,それぞれ手の中でつやつやに成形し,型に落とし込むと,最初は隙間が見えていたけれど,すぐに餅は吸い込まれるように花の形に収まっていった。

かくして,お花の形の一升餅が仕上がった。食品用のビニールに入れ,ステッカーを貼り仕上げて,無事に姑に納入した。

他のお祝いと一緒に東京に贈られ,後日義妹からは可愛らしい姪と私が作った一升餅が一緒に収まった写真が届いた。

餅つき機が我が家に来てから,13年が経過した。パン生地もピザ生地も練ることが出来るらしいこの機械だが,夫がかつて言っていたように他の機能は一切使っていない。本当に人のことを良く見ていると感心すらする。
先週も,なんでもない日に餅をついた。娘は当たり前のように「朝はお餅でも食べようかな」と言ってきな粉餅を頬張っている。
考えてみればまだ子どもたちには市販の餅を与えたことがない。彼らもいつか気が付くのだろうか,母の餅って意外とおいしかったよね,と。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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