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おおかみ子どもと山月記 (前編)
(冒頭から追記。冒頭が追記)
何となく書いたら意味が分からないと言う声がありましたので
この説明を冒頭に追加すると、細田監督のおおかみ子どもの雨と雪は
中島敦の山月記が下敷きになっているかなということで書き出しました。
「漸く四辺りの暗さが薄らいで来た。
木の間を伝って、何処どこからか、暁角が哀しげに響き始めた。
一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。
忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。
虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。」
山月記では、虎になってしまった李徴は、まだ月の見える夜明け前に姿を消します。細田監督のおおかみ子どもの雨と雪では、狼になることを自分で決めた雨は、お母さんから旅立つ時に朝日が昇るのと共に咆哮します。
だからお母さんの花は、雨が丘を駆け上り始めた時には「まだ何もしてあげられていない」と引き留めたい気持ちでしたが、丘の上で陽の光を浴びて吠える雨の姿を見て「生きて。元気で」と、雨を見送る気持ちになれました。
儒教的な物語である山月記を、おおかみ子どもの雨と雪では
新しく、仏教的な物語に生まれ変わらせているように思えます。