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「人間関係の苦しみ」
それにしても、
人間というものは
どうしてこれほどまでに違うのだろう。
外見は当然ながら、
その好み、関心、考え方の多様さは、
驚きを通り越して、
あきれるばかりだ。
この多様さが
個性の違いを生み、
自由や幸福感を創り出しているのは間違いない。
しかし、考え方の違いや、個性の違いが、
人間関係の苦しみの元になっているのは明らかだろう。
誰もが先を争って幸福を追い求め、
逆に衝突や葛藤を繰り返している。
なぜある人は愛せ、
ある人は愛せないのだろう。
憎しみや恨み心は
どこから出ているのだろう。
もつれたとは一体どうやったら、
解きほぐすことが可能なのか。
まずは、他の人も、自分と同じく、
幸福を追い求めている存在だと認めることだ。
次に、川の流れの如く、
すべては過ぎ去っていくものと信じることだ。
そして、信仰ある者は、さらに深さを求め、
信仰なき者への慈愛のまなざしを忘れないことだ。
(大川隆法 心の指針より)
【感想・気づき】
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人間て、つくづく不思議な生き物だなと私も思います。
この地球上にたくさんの人が生きていて、1人として同じ個性の人がいない。それって本当はすごいことだと思いませんか。
そして、異なる個性を持っているからこそ、時にぶつかり合います。。
異なる良さを持っているからこそ、力を合わせればとてつもなく大きなパワーを発揮することもあります。
そうした不思議な関係の中生きている私たちですが、
やはり人生の中での悩みのほとんどは人間関係なんじゃないかなと思います。
それそれはね、自由な考え方をすることで、個性の違いが生まれているわけなんですけれども、この考え方の違い、個性の違いがあまりにも顕著だとその人と合わないと言う苦しみが発生してきて、日々悩むことになるのだと思います。
どうして、自分はこの人のことを好きになれないのだろう。
どうして特定の人は好きだと思えるのに、苦手な人を克服できないんだろう。
どうして憎いと思った人を許すことができずに何年も溜め込んでいるのだろう。そ
そういう風に悩む方はいっぱいいらっしゃると思います。
この人間関係の悩み、苦しみをどのように解き明かしていくかというところも、人間がこの地上で生きている上で避けて通れない問題集なんだろうなと思います。
もちろんどうしてもわかり得ない人もいますし、恨み心を解くと言っても難しいと思うような因縁の相手もいると思います。
ただ、そうした中で1つ大切だと思うのは、
「自分も他人も等しく尊い存在であって、それぞれが幸福を求める権利がある存在である」ということをしっかり理解しておくことだと思います。
そしてさらに、信仰を持つ者にとっては、「他者の存在は、同じく神様から生まれ出てきた尊い存在である」という考えがあります。
そのため、どんなに憎い相手であったとしても、
「こんな人であっても、神様がその個性を作られたんだろう。何か意味があるのだろう」
と受け止めようという姿勢を持てるので、通常の人よりも少しだけ器が大きくなれるのが、信仰を持つ者の特徴だと思います。
私であっても、どうにもこうにも苦手だなと思う人が今までいなかったわけではありません。
けれども、「その人の個性の中に良いものがあるから、きっと神様が生かされてるんだろうな」と思うことによって、理解しようと努力してきたと言う過去があります。
それでもどうしても合わないと言う場合は、もう「諸行無常」ですね。
「川の流れの如く、すべては過ぎ去っていくものだ」と諦めることも大事なのかなと思います。
どうしても合わない人への考え方は難しいものがありますが、
まあ、自分には縁がなかったとしても、その人の個性を良しとする人がいて、その人たちが幸せであれば良いのかなと割り切ることも大事かなと思います。
ただ、全く合わないタイプに深入りにするとやはり悩むことになるので、ある程度の距離が必要なのかなと思います。
また、犯罪に手を染めるなどの悪いことをしていたり、神様の目から見て「これはいけないことだな」と思われることに足を突っ込んでような人だとしたら、個性が合う合わないとかのレベルを超えいます。
完璧な人間はいません。
だから、私たちもなかなか正義を振りかざすことはできないけれども、それでも人間として大切にしたい尊厳というものがあると思います。
人として、これは許されないだろうと思うようなことに手を出してる人がいたら、可能な範囲内で、「あまりその方向は良くないよ」と諫めてあげるのも同じ人間としての務めなのかなと思います。
ただ、「何を言っても響かない。自分が悪いことをしていると思わずに、逆に諫言してきた人を責める」というタイプ人もいるので、
そういうタイプの人には、本当に川の流れのごとくあまり関わらずにサラサラと流して行ったほうがいいのかなと思います。
最終的には、自分の行動に責任を取るのは自分自身なので、結果はその人自身に返って来るのだと思います。
仏教でいう原因・結果の法則は確実に存在しますから。悪に対して諫めることはできても、最後はその人自身の問題であると突き放す境地も必要なのだと思います。
私たちにできるのは、どんな悪を犯していたとしても、死の1日前に自分はひどい人生を送ってきたと涙を流す可能性がある、と知っておくことかもしれません。
どんな人にも最後まで可能性を信じ続けると言う姿勢は、同じ人間として持っていきたいものだと思います。
それでは、大切だと思われるポイントを何点か復讐しますね。
・どんな人も神の作られた個性を持っているため、その存在自体への尊重は必要である。
・そのため、どんな人にも最後まで可能性を信じ続ける姿勢は大切。
・憎いと思う人であったとしても、その存在全てを否定してはいけない。
・ただ、自分に手に負えないタイプもいるので、そこは深入りしない。
・最後は、すべては過ぎ去っていくものだと達観して、自分は自分の道を行く。
・自分のことを理解してくれる人がいるならば、その人たちを大切にしていく。
この辺りでいいのかなと思います。
人間関係の悩みは尽きる事はありませんが、少しでも皆さんの人生がより良い方向に輝いていくことを心よりお祈りしております。
拙い感想をご覧下さり、誠にありがとうございました。
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