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終りに見た街
このドラマについて自分が書かないでどうする、という謎の使命感によってこのnoteを書きます。
わたしは25年以上宮藤官九郎ファンとして、強火の意見を書きますので、どうぞご了承ください。
それから、かなりネタバレしていますので、ドラマ未視聴の方は視聴後にお読みください。
令和版のドラマ
この物語は、原作者の山田太一さんによって昭和と平成にドラマ化されています。
タイトル写真にしたシナリオ本は、山田さんによる昭和版と宮藤さんによる令和版が収録されています。
結論から言って、令和版(ここでは令和版のことを書きますので、今後特に注釈がない場合はこの令和版のことだと思って読んでください。)は、編集が最悪でした。
なんでこんなことになってしまったのか、その真相は分かりませんが、このnoteではわたしなりの思いを書こうと思います。
オンエア後の戸惑い
「終りに見た街」オンエア直後、視聴者のものすごい戸惑いがXのTLに溢れました。
わたしはちょうど旅行中でリアタイできなかったのですが、この反応だけは見ていました。
わたしのフォロワーさんの中には「🍓さんの意見を聞きたい」と言ってくれた人もいました。
これはどういうことかと、わたしも満を持して録画を観たのですが、その戸惑いに大いに納得しました。
とは言っても、「なんか細切れになってストーリーがよくわからんな」というのが、わたしの視聴後の率直な感想でした。
本当の驚きはここから
わたしは宮藤さんのファンなので、彼のシナリオ本は全部(たぶんこれまで出版されたものは芝居の戯曲を含めて全部持っています)読んでいます。
ですので当然、このドラマのシナリオ本も手に入れてありました。
いつもはオンエアを観た後にシナリオを読むことにしているのですが、今回は宮藤さんが前書きに「山田太一ファンの方は宮藤版から、宮藤作品のシナリオを一篇でも読んだことがある人は山田版から読むことをお薦めします。」と書いていたので、わたしは山田版の方から読むことにしました。
なるほど、山田太一さんはこういうドラマを書いていたのだなと分かりました。
そして、宮藤版をワクワクと読み進めました。
でも、読み進めるうちに「え?何これ?」となったのです。
セリフや場面カットだけでなく、構成まで変えられている!
読後は率直に、「なんだこれは??」と驚きました。
これまでもたくさん宮藤シナリオを読んできた身としては、ここまでシナリオに書かれていたこととオンエアされたものが違う作品は、これまでになかったのではというほどの変更に次ぐ変更です。
シナリオではちゃんと描かれていた、信子や稔の昭和19年の世の中に対する思いはもちろん、敏夫がテンポよく昭和19年に馴染んでいった背景も、だからこそ太一が家族の中で疎外感を感じていくようになるという、これら登場人物の心の機微がまるっとカットされてしまっていました。
これではラストシーンのあの衝撃は伝わらないし、視聴者は戸惑うしかなかったということに納得します。
でも、
これはクドカンのせいではない!
わたしは今回このことを大声で言いたいと思います。
宮藤さんはちゃんと描いていたんです。
それもすごく丁寧に。
まずは信子
信子は昭和19年に逆行してしばらくしてから、連日出される芋の煮付けやおかゆに心底嫌気がさし心が崩壊します。
彼女は、「おかゆだったらカレー味でリゾット風にしろよ!」と悪態をついていたのです。
ところがオンエアでは、突然すっかり昭和19年に馴染んで郵便局に労働奉仕に行くシーンが出てきます。
でも実はその前に、彼女は大声で昭和を戦争を否定しているのです。
それがあっての労働奉仕は、ただ言われたから行ったのではなく、嫌でも行かざるを得ない状況と抵抗が無駄だと思って黙って受け入れた信子の背景によるもので、更にいうと、いつまでもそれに抗って何もしない(ようにしか見えない)太一への反発によるものだったということが理解できる脚本構成になっているのです。
脚本では、根っこを持たない(「持てない」と言っていいと思います。)個人主義の極みである令和の若者の描写と、戦後生まれではあるけれど自分の主張を崩さない太一の描写を対比として描いています。
この令和の若者の本質。
それがいいか悪いかということではなく、これを巧みに描いたところが今回のドラマのいちばんの見どころだと、シナリオを読んでわたしは思いました。
終戦前の極限の生活
シナリオでは、信子や稔が栄養失調になっていく様子も描かれています。
できたかさぶたがなかなか治らない。
痒くてかくと余計に傷になってしまう。
小さな描写のようですが、戦争が日常を蝕んでいく様子が子どもたちの姿の背景に表現されています。
オンエアにあった、太一たちがビラを書こうとしたときに手伝うように言われた信子が「疲れてる」と断る場面は、シナリオにある子どもたちの健康が蝕まれている極限の生活の描写がカットされているからあまり生きていないのです。
新也の変化と瀬尾の登場
シナリオでは、敏夫はその人あたりの良さを利用して物語の初めの方で手に入れた(このシーンもカットされています)リアカーのレンタル業を始めて家計を助けています。
一緒について行っていた新也は、頭を下げる父親の姿に嫌気がさして家を飛び出します。
きっと初めは信子と同じ昭和への反発もあったはずです。
でも彼は恐ろしい速さで昭和に順応し、この時代の「戦争に勝つことこそが正義」というわかりやすい理論に完全に乗っかっていきます。
それは、令和の学校でいじめに遭い、理不尽な同級生や何もしない教師の姿を見てきて、かつ「不登校も個性」とふわっとした肯定的な言葉でどんどん社会から隔離されてきた彼にとっては、簡単に居場所を作れる方法であったからです。
「多様性なんてくそくらえ」という台詞がありました。
これは令和の時代に新也がずーっと思ってきていた心の叫びだったはずです。
でもこの新也の告白は、前述した初めは昭和に悪態をついていた信子がどんどん戦争に染まっていくというエピソードがあってこそ生きるものだったと思います。
この後、隣に黙って座っていた瀬尾が「(令和の戦争は)肉感が足りないってかリアリティに欠けるんです。この時代はガチなんで、自分的には願ったり叶ったりです」とアッサリ話します。
これこそが「令和の個人主義」の最も恐ろしい考え方のひとつでありますが、信子や新也が戦争至上主義に染まっていく様子は、瀬尾ほど極端な考えではないけれど、少しずつこの異常な状況を受け入れていってしまう今の若者の心理を巧みに表現していると思います。
ここでちょっと余談です。
瀬尾を演じている篠原悠伸さんは大人計画の役者ですが、まさにオンエアと重なって「ボクの穴、彼の穴w」という戦争がテーマの二人芝居で兵士の役を演じていました。
この舞台はどの時代の戦争を描いているかは明言されてませんが、兵士役のふたりはまさに現代の若者として描かれています。
「戦争マニュアル」に従って、誰のために何のためにやっているのか何も分からない、もちろん思想も持っていない、ごく普通の若者たちが見えない「敵」を殺そうとする、そんな物語です。
二人の兵士は「自分はごく普通の若者。でも敵は違う。敵はモンスターで、心を持たない人でなしだ」とお互いに考えているのです。
この舞台に出演しながら、一方で瀬尾役を演じた篠原さんはふたつの役を行き来しながらいろんなことを考えて演じたはずです。
このキャスティングはなんとなく大人計画社長の長坂さんの差し金のように思います。
ここでこのふたりを演じた篠原さんは、今後役者として確実にステップアップしていくはずだとわたしは楽しみにしています。
敏夫の思いも描くべきだった。
シナリオでは、敏夫と新也の家族のこともきちんと描かれています。
敏夫の奥さんと娘さんは、この逆行現象に巻き込まれなかったのです。
敏夫はこのことにホッとしています。
家族が離れ離れになったけど、この訳の分からないことにふたりが巻き込まれなかった。
今頃令和で呑気にふわふわパンケーキを食べている、それだけで十分だと彼が話すシーンがカットされています。
敏夫の人物像が、どこか飄々と軽やかに描かれているのは、彼は自分の家族の半分をここに巻き込まなくて済んだという安堵の思いを抱いていたからではないかと思います。
でもそれもカットされているからオンエアではわかりづらいのです。
その前にも太一と敏夫がテレビ局で再会するシーンの後、シナリオでは子どもの頃に父と共に太一の家にやってきた敏夫との回想がもう少し詳しく描かれています。
敏夫の父は戦死した自分の兄(つまり敏夫の叔父)が太一の父の戦友だとして太一の家にやってきます。
ここでシナリオでは母の清子は「あの人(敏夫の父)の兄のことは幼馴染だから知っている。でもあんな弟がいたかは知らない」と話すのです。
その兄こそが清子の初恋の人で、のちに新也が瓜二つだと描かれる人物です。
なんでこんな重要なシーンをカットするの??
ここが理解できてないと、敏夫はただの「よくわからないけどなんか明るくて人あたりのいいおじさん」で終わってしまいます。
この場面がないと、ラストシーンで新也(か敏夫の叔父かはわかりません)が清子をおぶっている理由がわからないではないですか!!!
いったいテレ朝の人たちは、何を考えてこのドラマを編集したんでしょうか。
呆れてしまいます。
昭和(戦前戦中)と昭和(戦後)と令和の価値観
山田太一のドラマ版では、昭和19年での信子、稔、新也の変化はそれほど大きくは描かれていません。
まだ戦争の記憶が残っていた戦後の日本で、若者たちが、戦争で日本人をたくさん殺したアメリカという国を今だに「憎い敵」として捉えていることは実際にあったことだと思います。
山田太一が描いたのは、その危うさだったのではないでしょうか。
ふと気を抜くとまた「鬼畜米英」の思想が蘇ってくる、この物語はそういう危機感から描かれたのではないでしょうか。
ドラマの平成版は残念ながらわたしは見ていないので、ここでは割愛しますが、今回の令和版では、若者どころか親である太一たちの世代ですら戦争の記憶はまったく残ってないと言ってもいい世界が舞台です。
なのに、信子も稔も新也も瀬尾も、アッサリと戦争を肯定するのです。
(稔はラストには太一の方にいきますが)
しかも彼らは太一の主張を「戦争の愚痴」だと断罪するのです。
これこそが、この令和版「終りに見た街」が描いた世代間の価値観の差の恐ろしさで、今回のドラマで描かれた最も特筆すべきことであったと思います。
今を受け入れないと存在が否定される
信子や新也は「今(信子たちの生きる昭和19年)は、昔(逆行する前に存在した昭和19年)とは違う。今度は自分たちがひっくり返す」と主張します。
愚痴ばかり言ってる父親たちと違って、自分たちは今この時代を生きている。この時代をちゃんと受け入れて、この時代のために生きる。と話します。
これこそが、昭和戦後時代の太一たちと、令和の若者信子たちとの分断です。
信子たちは「わたしたちは昔話の世界の住人ではない」と言います。
過去にあった戦争を否定して二度と過ちを繰り返してはいけない、と強く主張する太一とは違い、信子たちは「この時代を受け入れて自分たちで過去にあったことを覆す」と解釈するのです。
それは、今を受け入れることが自分を肯定することに繋がるという、現代の若者の価値観といえるのではないでしょうか。
かつて、戦後の若者は自分たちの主張のために学生運動を起こして大人たちに抵抗しました。
でも、信子や新也は「反発するなんてただの愚痴。受け入れることを怖がっているだけ」と大人たちを冷笑するのです。
令和の若者について、わたしはそんなに詳しくはないので偉そうなことは書けません。
でも、前述した篠原悠伸さんが出演している「ボクの穴、彼の穴w」では、兵士として働く若者の超個人的な様子が描かれています。
二人の兵士は誰に雇われたかも知らず、たったひとりで「戦争マニュアル」にのみ従って戦闘を繰り返すのです。
これは、ひとりで家にいてもスマホひとつで世界と繋がる現代への痛烈な風刺です。
この舞台でのふたりの兵士は、物語の終盤でお互いの存在をリアルに知ることによって「どうやってこの戦争を終わらせるのかわからない。誰が何のために戦っている」と気がつきます。
しかし、信子や新也は違いました。
ふたりはリアルにそばにいたのに、「誰が何のために戦っているのか」この本質に目を向けることはついになかったのです。
太一の描かれ方
主人公である太一は、昭和19年では「何もしない父親」のレッテルを貼られてしまいます。
現にうまく世の中を渡っている敏夫とは対照的に太一は何をやってもうまくはできず、工場からも追い出されてしまいます。
でもだからこそ、太一はこの逆行について深く考えるようになるのですが、信子や稔、新也から見たら「恥を知れ」と映っているのです。
シナリオでは、太一が少しずつ家族の中で居場所を失っていき劣等感を抱いていく姿も細やかに描かれています。
この太一の描写こそが、最後信子や新也と決定的に決裂してしまうことに繋がります。
この太一の心理描写が全てカットされているのはすごく残念です。
衝撃のラスト
昭和版では現代に戻った後、稔の死が描かれ、ラストは戦後復興した東京の様子が流れた後、原爆投下で幕を下ろします。
これは、80年代当時のアメリカとソ連の冷戦を暗示しているのだと思います。
しかし、令和版にはその描写はなく(稔のメンコが映ることでその死を暗示しています)、おそらく令和に戻ったために更新され始めた、寺本の異常なまでのインスタ連続投稿(これも個人主義の極みです)のあとに、あの謎の敏彦(あるいは新也)と幼い日の清子の姿が現れて終わります。
このラストシーンについてはいろんな解釈があると思いますが、わたしは令和の時代への宮藤さんなりの警鐘なのかなと受け取りました。
地下のシェルターに自分だけ逃げてワインを飲んでインスタ投稿を繰り返している寺本と、太一の生活をことごとく壊していった人物が同じと描いているのだとすれば、寺本は令和の東京で、自分は危害を受けない場所から太一たちの運命を面白おかしく見ていたのかもしれません。
しかし、そういう寺本も自分以外は全員死んでしまった瓦礫の東京でどうして生きていくのかはわかりません。
最後の兵士が敏彦なのか新也なのかはわからないけど、戦争を受け入れた新也であったとしても最後は個人主義の極みである寺本がインスタ投稿しているスマホを踏みつけて去って行くのです。
これは世界で今も繰り返される戦争や紛争に対するやりきれない思いと重なります。
どんなに争いが無意味であると説いても、裏側ではいくらでもそれを肯定する言葉が溢れている。
かと思えば「自分には関係ない」と無関心を貫く人もいて、でもそう言っていた人がある日突然驚くような危険な思想に染まっていく。
この根無草の世界がいきつく先はどこなんだろうかと思わずにはいられません。
最後に投げかけられた問い
「どんな戦争であっても人が人を殺していい理由にはならない」と主張する太一に「気持ちよくなってるだけ」と信子は反論しますが、実はシナリオにはそれに対して太一が「気持ちよくなってるのはお前らの方だ」と言い返しています。
わたしは太一世代だから、太一の言い分に共感します。
しかし、令和の若者からすれば、信子や新也の考え方の方がよほど合理的なのかもしれません。
ラストシーンで、寺本のインスタライブが踏みつけられたことも、「昭和か令和か」のような単純な問いではないと思いました。
(それに寺本は平成世代ですよね)
この問いについては、わたしたちはこれからも考え続けないといけないと思います。
多くの市井の人たちの日常を細やかに描いてきた山田太一さんも、そういうことが言いたかったのかもしれません。