私たちはどうしてなかなか思考が止められないのか
今日、『ラマナ・マハルシの教え』という本を少し読みました。神人と呼ばれる偉大な非二元的な考え方のティーチャーです。今までわたしが出会ったことのない言葉の言い回しで表現されていて、翻訳者の訳し方の影響もあると思いますが、とても新鮮な感じがします。
このような精神世界を表現するときに、おそらく言葉というのは、指し示すためのポインターの役割を果たすものだと思うのです。ですから、その表現者がみているものをどういう言葉を使って表現するかというのは、それぞれの個性のようなものだと思います。
それぞれが、違った表現をするのは、とてもすばらしいことで、本来言葉で表すことができないものを表そうとしている、つまり、言葉の限界に挑戦しているからこそ、表現する者は詩人になるのだ、というようなことを聞いたことがあります。
今日は、ラマナ・マハルシの影響を受けて、昨日までの note と一部、別の言葉を選んで書いてみようと思います。そのうちに、自分の中で整ってくるといいなと思っています。
私たちはどうして心の内にさまざまな想いがわき起こるのか、なかなか思考が止まらないのかという問いに対して、ラマナ・マハルシは次のようなことを言っています。
思考の内容は、心の潜在的な傾向に原因がある。すなわち、どんな考えごとをしているかというのは、私たちの潜在意識が考えていることを反映したものである。
次に、思考は、本当の私を忘れて、そこから外にさまよい出てしまった一人一人の個人の意識だけに現れると言っています。
本当の私というのは、私たち一人一人の個を超えた、たった一つの不滅の生命のことですが、その大きな大きな一つの生命から出てしまって、個の意識になったときに、そこに去来するのが思考なのだと言っています。一人ぼっちになって、私だけのストーリーをそこに見るというのです。
そして、そうなったとき、「それを見ている者は誰か」という問いがなされなければならない、と解決法を示しています。そうすれば、その思考はただちに消滅するだろうと。
思考にとらわれている、一人ぼっちのエゴを後ろから観察している者は誰か。
本当の私がじっと観察している。