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柳美里 JR上野駅公園口

全米図書賞の翻訳部門賞を受賞したと知り、そういえばWaterstonesにもたくさん平積みで置いてあったなと思い出して手にとった。最近意識して読むようになった日本のコンテンポラリーな小説には個人的な「当たり外れ」があるのだが… と慎重にページをめくり出すと止まらなくなった。

社会からこぼれ落ちてしまった人間が唯一の「居処」として見出した公園。都市にぽっかりと口を開けた、現れた、裂け目のような空間、にゅっと突き出された止まり木のような場所である公園。そこに、同じ空間に在りながら、決して重なり合うことのない数多の人生。主人公が拾う幾多の声は、お互いに呼びかけ合うことも答えることもなく、浮かんでは消えてゆく。ヴァジニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を思い出しながら読んだ。上野恩賜公園を彷徨う主人公がセプティマスなら、物語最後で彼と行き違う天皇はクラリッサか。本作品の主人公もセプティマスも、現代社会の、都市の裂け目に向けて、その背後に潜む暗闇へと、深淵へと身を投げる。

主人公が、その手で掴み、捉え、握ったツルハシでスコップで、築いてきた戦後のニッポンは、噛み終えたガムのように彼を吐き出し、生まれ育った町は孫娘とともに津波に呑まれ、繁栄をもたらした原発から降り注いだ放射能に汚された。彼がツルハシを振るった仙台の街は地震で崩され、彼を東京へと導くきっかけとなった大会から2度目となるオリンピックは、世界に蔓延した伝染病禍で開催されるかどうかわからない。未来は、どれほど強く握り締めても、願っても、こぼれ落ちてしまう砂のようだ。

それでも彼は、私たちは、ツルハシを握り直し、額の汗を拭い、コツコツと日々を築いてゆくしかない。生きるしかない。そうやって冷たく硬い土を掘った先に待っているのが、ダンボールとブルーシートで作ったコヤでも、2度と目覚めることのない眠りでも、念仏さえ唱えればやがては浄土に往生すると、信じていてもいなくても。この重さ。ずっしりとした、生きることの重さ。

日本の小説では久しぶりに出会った重さ、感じた重さだ。英米でよく読まれたというのも頷ける。

都島

木屋町あたり 20150107