須賀敦子 ユルスナールの靴
1987年、私は二十歳になった。その年の6月に森茉莉が逝き、12月にマルグリット・ユルスナールが死んだ。二十歳の私はようやっと文学の浜辺に立ったばかりで、おそるおそると爪先を濡らし、ひとつふたつと拾い上げた美しい貝殻の、選んでポケットにしまったうちのふたつがほろほろと崩れてしまった。一歩二歩と歩み出したばかりの私には、彼女たちが「死んでしまう」というのが不思議でたまらなく、そしてなんとも心細かった。(そういえば、確か澁澤龍彦も同じ年に世を去った。)
ほぼ30年ぶりに大阪へ移住して、浮かれて本屋をうろうろ彷徨っていて、目に止まったのが「ユルスナールの靴」というタイトルだった。あ、ユルスナール… 須賀敦子、聞いたことのあるような、ないような… 腕にはもうすでに3冊の本を抱えていて、文庫本1冊くらい増えたって構わないと手に取った。家に帰って調べてみると、この本が出版されたのは1996年、私はすでに英国に移住していて、その2年後に著者は亡くなっていた。彼女の(翻訳以外の)著作が出版され出したのもちょうど私が日本を離れた頃で、つまり私が「あちら」を向いている間に活躍していた人だった。私が「ここ」に居らぬ間にユルスナールと出会い、私と同じようにユルスナールに惹かれ、私の居らぬ間に逝ってしまった人の本を読む。なんとも不思議で、少し寂しいような、それでも出会えたことが嬉しいような体験だった。須賀氏のユルスナールを追う旅を私が追うようだと、追善という言葉がぼんやり浮かんだ。
「あちら」とはヨーロッパだ。
戦後まもなく渡欧し、イタリアに長く住んだ須賀氏が見た/生きた/胸にとどめた「ヨーロッパ」は、若い頃に私が夢見た「ヨーロッパ」にどこか似ていた。そして、それはユルスナールの「ヨーロッパ」、exileとしてのユルスナールが焦がれた「ヨーロッパ」でもある。一度渡英してしまうと、そんな若い日の胸の中の箱庭のような「私のヨーロッパ」のことなんてすっかり忘れてしまっていたのだけれど、驚いたことに、帰国した私の日々に最も足りないと感じているのが、その「ヨーロッパ」だということに気づかせてくれた本だった。
戦渦を逃れた先のアメリカで、ユルスナールはハドリアヌスとともにローマ帝国を、のちの文化圏としてのヨーロッパを、隅々まで旅した。若い私を虜にした小説はかくして生まれた。彼女がヨーロッパを離れて初めて見えたもの、掴めたものはなんだったのだろう。イタリアを離れてから須賀氏の眼前に立ち上がったヨーロッパはどんな姿をしていたのだろう。そして、ユルスナールと出会うことで、須賀氏の「ヨーロッパ」にはどんな新たな光があたったことだろう。アクロポリスから見つけた林の中に佇むテセイオンのように。サンタンジェロで一度は通り過ぎ、引き返して見い出したハドリアヌスの詩行を刻んだ大理石の白さのように。
離れたからこそ見えるものがあり、手に心に触れるものがある、共鳴するものがあると知るのはなんとも心強い。そして須賀氏がユルスナールを追って旅に出たように、私も須賀氏を追う旅に出るのも良いかもしれない。(積み上げられた本の数々が目に入らぬわけではないけれど。)
ところで、ユルスナールが履き、幼い須賀氏も履いていた「横でボタンをぱちんと留める」靴というのは、メリージェーンのことだろうか。私もメリージェーンは大好きで、何足も履いて履きつぶしたが、特に思い出深いのは、随分むかし日本に帰省中に買った黒いメリージェーンで、知られた靴屋のものでもなく値段も手頃だったが、とにかく足にぴったりと合って歩きやすかった。それこそ、どこまででも歩いていけそうな靴だった。大好きで、大好きで、何度も何度も踵を換え、底も継ぎ足し、インソールも裏もみな張り替えて、元の値段の数倍は修理代に費やしたが、遂に上革が裂けて泣く泣く捨てた。旧い友を失ったような寂しさがあった。以来、あれほど私に合った靴とは出会えていない。