【第15回】エッセイ:マイラストソング(600字)
さまざまなジャンルの文章に、自分なりの赤ペンを入れていく企画です。マガジンの詳細については【はじめに】をお読みください。
今回のお題は、コチラ。
マイラストソング~人生最後の瞬間に聴きたい曲(600字)
元ネタは、「寺内勘太郎一家」などのヒットドラマの脚本を手掛けた、久世光彦(くぜてるひこ)さんのこちらの本になります。
50歳を過ぎたときから、久世さんが知人に「あなたのラストソングは何か」と聞いてみたり、すでに亡くなった人のラストソングを想像してみたりしながら、自身のラストソングを探求していくエッセイです。
久世さんのお人柄が感じられる、とても味わい深い一冊でした。興味のある方はぜひ、ご一読ください。
このエッセイの冒頭で、久世さんはこんなふうに書いています。
「 こんなことを考えるのは、私だけだろうか。私の死がついそこまでやって来ているとする。たとえば、あと五分というところまで来ている。そんな末期の刻に、誰かがCDプレーヤーを私の枕元に持ってきて、最後に何か一曲、何でもリクエストすれば聴かせてやると言ったら、いったい私はどんな歌を選ぶだろう。目はもう見えない。意識も遠退きかけているが、聴覚だけがわずかに残っている。しかし、時間がないから一曲だけである」
(中略)
「 <最後の食卓>と違って、五十年かけて聴いたり歌ったりした歌というものは、あまりに数が多すぎて、一つはおろかベスト・テンを選ぶのだって迷いに迷いそうである。歌と言ったって、歌謡曲もあれば童謡もある。讃美歌だって歌である。パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」を聴けばいまでも涙が出るし、杉並第一国民学校という小学校の校歌を兄と二人で口ずさめば、あの顔、この顔、次々と浮かんでくる。もう死んでしまった奴、行方の知れない奴――時代が変わればその都度人の数だけ歌があり、ところ変わればまた一つずつ歌がある。まして、死ぬときに耳元で聞こえる歌ということになれば、それは私の人生そのものということになるかもしれない。無人島に持っていく一冊の本とは訳が違う。<あなたは最後に何を聴きたいか?>自分で言いだしておきながら、これはとても厄介な質問である」
久世さんがこの本の中で取り上げるラストソングは、戦後の歌謡曲から小学唱歌まで多岐にわたりますが、その中で私がとても印象に残った曲は、「おもいでのアルバム」でした。
いつのことだか 思い出してごらん
あんなこと こんなこと あったでしょう
嬉しかったこと 面白かったこと いつになっても忘れない
この曲、誰もが子供の頃に一度は歌ったことがあるはずです。
久世さんはこの曲を選んだ理由をこう綴っています。
「長かったような、短かったような、納得がいくような、いかないような人生を終わるときも、家族や友だちの目を見ながら、こんな風に別れの歌を歌えないものだろうか。あれこれ考えたって、もうどうになるものでもあるまい。千々に乱れるだけ滑稽かもしれない。思い出すなら、幼稚園の子供たちみたいに、春はぽかぽかお庭に咲いていたきれいな花を、夏なら麦藁帽子に砂山、気持ちのいい風が吹いて、お日様がいっぱいの風景にしたいものである。そして声を合わせてみんなで歌った最後に、《もうすぐみんなは一年生》というところで大笑いして終わりたいものである。
いつもそんなことを考えているわけではないが、三月のよく晴れた朝、いつも近くを通る幼稚園からこの歌が聞こえてくると、やっぱり立ち止まっておしまいまで聴いてしまう。春の日だまりの中で、こっそり泣きながら思うことは様々である。五十年前に優しくしてくれた先生の顔が思い浮かんだりもする。いまは大きくなってしまった自分の子供を想いもする。どうしてか、悲しい思いをさせてしまった昔の人のことが案じられたりもする。……本当に、あんなこと、こんなこと、いろいろあった。」
抜き出したこの文章に、歌詞を挿入したとして、540文字程度。今回のお題の文字数とだいたい同じです。
素敵だなぁ、50歳を過ぎたら私もこんな文章が書けるようになるかしら、なんて一人ため息が漏れてしまうのでした。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、今回は4人がこのテーマで書いてくれました!
最初に紹介するのは、赤ペン教室が始まったときからずっと書いてほしいと思っていた、若手ライターのYちゃんの文章です。
私が人生の最後に聴きたい曲は、槇原敬之さんの「僕が一番ほしかったもの」。ある人が、素敵なモノを拾うたびに、それを必要とする他人にあげてしまうことを繰り返す曲だ。はじめて聴いたときは、曲後半の「そんなことを繰り返し、最後には何も残らないまま」という歌詞に「えっ」と驚かされた。なんで、心優しい人が、自分で拾ったものを全部他人にとられて、最後に何も残らないんだ! その時、憤慨したのは、多分、私の身近で大切な人が、歌と同様、自分に必要なものも、困っている他人に譲ってしまう人だったからだ。その人に私は、誰よりも幸せになってほしいと考えていた。あれから5年が過ぎ、その間に私はフリーのライターになった。ただただ誰彼の好意に甘えることでしか生き延びられなかった独立1年目。そんなとき、この曲を聴いて心に浮かんだのは、まわりの人たちへの申し訳なさや有難さ、さらに「私は成功しないといけない」という想いだった。私には、私が苦しいときに助けてくれた優しい人たちを、幸せにする義務がある。そんな風に感じたのだ。今はまだ、与えるよりも与えてもらうことの多い現状への情けなさを押し殺し、図太さを装って、前向きに、にこやかに、明日を信じて生きるばかりなのだが。いつの日か、人生の最期にこの曲を聴き、色々と振り返りながら穏やかに、この世を去れるようになっていたい。
普段、明るくて元気いっぱいのYちゃんのイメージとは全然違う渋い文章がきたので、「おっ!」と意外でした。Yちゃんのライターとしての覚悟がひしひしと伝わってきます。
この文章に、赤ペンを入れてみました。
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