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カルト宗教と社会



旧統一教会とオウム真理教事件


世界には数多くのカルト宗教が存在します。

ここ日本にも同じように多くのカルト的な宗教団体やグループが存在しますが、私たちの記憶に新しいところでは、例えば、2022年7月に安倍晋三元首相が奈良県での演説中に暗殺された事件がありますね。

犯人の男の母親は旧統一教会の熱心な信者で、教団に多額の献金を繰り返していたことが原因で家庭が崩壊したことを恨んでおり、その恨みの矛先が旧統一教会と関係のあった安倍晋三元首相に向かったと聞いています。

この団体は何十年も前から日本で霊感商法や大学で学生を勧誘して洗脳したりといった反社会的行為を繰り返してきたことで有名です。

私は直接関わったことはないのですが、20代の頃、東京の新宿駅周辺を一人で歩いているときに、手相を見せて欲しいと言って声をかけられたことが何度かあります。

もっと昔にあった有名なカルト宗教による事件では、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件があります。

若い方でも聞いたことがあるかもしれませんが、私は当時、事件発生当日の朝にたまたまテレビのニュースで見ていた記憶があります。

その他にも小さな事件も含めると数多くの事例が挙げると思います。

私の母親は、
「あんたも変な宗教とかにだまされんように気を付けなさいよ。」
と言っていて、私も、
「たしかに最近は変な宗教や自己啓発セミナーみたいなのが多いからだまされないように気をつけよう。」
と思ったものでした。

当時の私は、
「私のような疑い深い人間が、変な宗教とか自己啓発セミナー、ネットワークビジネスなどに洗脳されるようなことはないだろう。」
と思って安心していました。

しかし、後になって、私はある衝撃的なことに気づいてしまいました。

その気づきは、
「いや、ちょっと待てよ。もしかしたら、自分を含めてほとんどの人がすでに強固な洗脳を受けているんじゃないのか?」
という、かすかな疑いから始まりました。


「社会」というカルト宗教


私たちが幼い子供だったころは、毎日何も考えずに無邪気に遊んでいたのですが、小学校、中学校、高校・・・と学校教育を受けるにつれて、学校の先生や親や友人などから無数の価値観や概念を叩き込まれてしまい、ほとんど無意識の内に自己イメージや世界に対するイメージなどを概念的に構築していきます。

それだけでなく、日々接しているネットやテレビ、SNSなどからの情報源を信じてしまったりして、さらに強固な世界観を作り上げてしまいます。

そして、それらが全て頭の中で勝手に築き上げられた単なる信念体系でしかないにもかかわらず、私たちは気づかぬうちに、それらの頭の中にしかない信念体系が頭の外側、つまり、私たちが一般に「世界」と呼んでいるところにも確実に存在していると錯覚するようになります。

頭の中の信念体系は単なる概念、つまりただの思考にすぎないのですが、この思考を頭の外側に映し出して世界をとらえるようになるのです。

つまり、言い換えると、私たちは、外側の世界をありのままに見ているようで、実は、頭の中の思考を見ていることになるわけです。

この外側の世界に映し出された信念体系は、生まれ育った環境によって条件づけされているものですから、人それぞれ違ったものになっています。

そのため、私たちは、同じ世界を見ているようで、実は、一人ひとりが違う世界を見ていることになります。

このような世界観は、高校や大学を卒業した時点ですでに完璧に構築されており、私たちは完全に洗脳された状態で社会に出ていくわけです。

完璧なまでに洗脳された人間たちによって作り上げられている社会というものは、まるで静かなカルト宗教のような様相を呈しています。

この「社会」というカルト宗教は、国家間の戦争のようなわかりやすい暴力的で狂気じみた行いだけでなく、SNSなどを用いた誹謗中傷や会社でのパワハラや人間関係の問題、経済的な搾取の構造、貧困問題、独裁政治など、危険なカルト宗教が起こす一時的な事件の足下にも及ばないほど、破滅的に人々の精神を蝕んでいるようです。

なにより一番恐ろしいのは、この社会カルトのメンバーである私たちが、洗脳されていることに全く気づいていない、ということです。

私たちは、人やメディア、物理的世界から五感を通して脳に入ってきたごく限られた狭い範囲の情報だけから、自分オリジナルの世界観を「想像」し、それによってあたかも世界そのものを知ったかのように錯覚してしまっています。

単なる頭の中の錯覚を外側の世界に投影しているだけなのに、「私は世界を知っている」と信じ込んで疑わない状態は、妄想性障害と何ら変わりません。

私たち人類の中で、成長した大人のデフォルトの状態が妄想性障害という精神疾患なのです。

根本的な精神疾患をかかえた大人たちが、たとえば会社という一つの組織の中で同じ目標に向かって行動を共にすると何が起こるであろうかは、火を見るよりも明らかではないでしょうか。


社会による洗脳から解かれるために


学校教育や親などの影響によって無意識にさまざまな概念を植え付けられ、強固な信念体系や自己イメージ(おおむねネガティブなイメージが多い)に洗脳されてしまった私たちが、この根深い洗脳から抜け出して自由になるためにはどうすればよいのでしょうか?

カルト宗教や自己啓発セミナーなどの洗脳から解かれていくための一般的なプロセスもおそらくそうだと思いますが、まずは、自分が洗脳されていることに気づく、ということが最初のステップになります。

気づくだけというと、一見簡単なように感じられるかもしれませんが、これが結構難しいのです。

私自身の体験からも言えることですが、完全に洗脳されているときは、他人から何を言われてもどう指摘されても、なかなか素直に信じることができず、プライドや恐れなどのエゴ的な思考から、「おかしいのは彼らの方だ」と信じて疑わないことが多々あるのです。

なかでも、「恐れ」というのは洗脳から解放されるための大きな障害となります。

自分がこれまでずっと信じてきた信念や概念、自己イメージ、世界観がウソだと認めるということは、あたかも自分の存在価値そのものを疑うことになるわけで、「普通の」大人であれば、これを認めることはそう簡単にはできません。

カルト宗教に洗脳されてしまったわが子を連れ戻そうとして親が必死に説得を続けても、解放することがなかなかできないのも、この強烈な恐れが起因していると考えられます。

一番最初に例で挙げた旧統一教会の例では、もし、キリストの再臨である文鮮明が実は救世主でも何でもなかったと認めてしまうということは、自分は救われていない堕落した人間のままであるということになり、それは肉体の死後地獄に堕ちてしまうことを認めてしまうことになり、それは本人にとってはとてつもない恐怖を伴うものになります。

しかし、社会による洗脳はそこまで意味不明な教えをベースにしたものではないので、認めたからといってそこまで強烈な恐怖を感じることはありません。

たとえば、
「人は額に汗して働きお金を稼ぎ続けなければ、いずれホームレスになって餓死してしまう。これからの時代は物価上昇に大増税も加わり、その可能性は確実に増加するに違いない」
という漠然とした恐れを信じている場合、実際に日本で毎年何人の人が餓死しているのか調べてみるとよいでしょう。

そのような統計データはまったく出てこないことがわかるはずです。

大手のメディアが流すニュースの多くは否定的でセンセーショナルなものが多いため、何も考えずにそういった情報に触れて鵜呑みにしてしまうと、いとも簡単に騙されてしまうかもしれません。

大切なのは、自分自身の体験を通して中立的に事実確認をすること、信じている概念や信念体系がじつは大ウソなのではないかと疑ってみること、です。

この作業を日々地道に行っていくことで、私たちは一進一退を繰り返しながら、少しずつ洗脳(強固な思い込み)から解放されていくことができるのです。


私たちは本来完全に自由である


私たちは本来、完全に自由な存在です。

まだ自我がそこまで発達していない5歳児を観察していれば、このことがわかるのではないでしょうか。

いろんな概念に縛られていない彼ら子供たちは、いつも目をキラキラと輝かせ、昨日のことでもなく明日のことでもなく、まさに今この瞬間を精いっぱい楽しんで生きています。

それが私たち人間の本来あるべき姿です。

もちろん、現代社会を維持していくためには、思考を使っていろいろ考え、感情に流されすぎず、共通のルールのもとでお互いを助け合いながら生きていくことが大切ですが、だからといって、私たちのだれもが本来もっていた生きる喜びを見失っては本末転倒なのです。

本来、ありのままで自由であった私たちなのですが、成長過程において、周囲からさまざまな概念を教え込まれ、無意識の内に信念体系を作り上げてしまいます。

この過程においては、学校教育や大人たちが大きな影響をおよぼします。

「今のあなたのままでは不完全だから、もっと努力して今以外の何者かにならなければ幸せになれない。」

このような何の絶対的な根拠もない概念を真実であるかのように教え込まれてしまうと、子供たちは次第に劣等感をもつようになり、自分を他人と比較したり競争したりお互いに傷つけ合ったりするようになります。

10代に入った頃にはすでに多くの子供たちが自己否定感に苛まれるようになります。

これは社会における洗脳プロセスの一例ですが、洗脳プロセスによって私たちは無数の制限を頭の中で作り上げてしまい、本来もっていた自由が失われてしまったかのように感じられます。

私たちのほとんどは何らかの信念体系をもって生活していますが、そのほとんどは制限になるだけで、本来私たちがもっている自由や愛、喜びを覆い隠してしまいます。

今のような混迷の時代だからこそ、私たち一人ひとりが本来の自由を取り戻し毎日喜びをもって生きることの大切さが思い出されやすくなってくるのではないかと感じています。

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