「常識」を疑ってかかれ!
今回の話は、別に新しい切り口の話ではなく、もはや世の中で言い尽くされてしまった感のある内容です。
それは、
「常識はまず疑ってかかれ」
というものです。
人間社会には、皆さんご存じのように数多くの「常識」とされていることがあります。
多くの人がそのおかしさに気付いていながらも、同調圧力などから従わざるを得ないものも数多くあります。
「ところ変われば常識も変わる」
と言われているように、日本には日本独自の「常識」があり、それは一歩日本という国を出ると、「非常識」となってしまうものも少なくありません。
これは日本だけでなく全ての国に共通して言えることで、その国の国民性などに従ったその国独自の「常識」があります。
多くの人が、「常識」という、人間社会の中で大多数の人々に支持されている一種の集団的「思い込み」を疑うことなく、「常識だから」という理由だけで信じてしまう傾向があります。
一種の洗脳と言っても過言ではありません。
同じ国でも、時代によって「常識」というものは大きく変化します。
太平洋戦争の頃の「常識」は今の時代では全く通用しないものが数多くあるでしょう。
私のおばあちゃんは、戦争が終わって40年経ったときでも、
「ぜいたくは敵だ!」
と信じていて、自分自身を楽しませるようなことは悪だと言っていました。
まだ、日本が製造業における大量生産によって経済発展を続けていた時代では、企業の言う通りに働いてくれる人材を育てることが重要だったということもあり、学校では、そのための準備として「常識」を植え付ける必要がありました。
ところが、バブル経済が崩壊した1991年以降になると、それまでの全体主義的考え方の反省からか、突然、
「これからは個性の時代だ」
と言われるようになりました。
私はちょうどその日本経済の転換期に中学・高校で学校教育を受けていましたから、私たちの世代はかなり「常識」というものの変わりように翻弄されてしまいました。
結局のところ、いつの時代においても人間社会の「常識」には信じるに値するための決定的な根拠に欠けています。
その多くが、企業や政治のプロパガンダによるものであったり、人間の「恐れ」による幻想であったりと、何らかの感情論に左右されているものがほとんどではないでしょうか。
今の時代を生きる私たち一人一人に求められているのは、親や会社の上司や同僚などから言われたことや、メディアで言われていることを鵜呑みにするのではなく、心の本音の声に従って、自分の信念に沿って生きるということです。
外の世界から入ってくる「常識」は、一旦無視して、他人に迷惑をかけない範囲で、常に「自分軸」に従って全てを判断することを心がけましょう。
「常識」というものは、極端な言い方をすれば、人間の潜在意識に潜む「恐れ」に端を発しているものであり、何かにすがりたいという人間心理によって創り出された集団的思い込みに過ぎませんので、それらを信じる必要性は無く、あなたは常にご自身の本心本音の声に従って生きていれば良いのです。