人種差別の根本原因
人種差別の問題はかなり根深いもので、差別による悲しい事件や出来事が少しでも減るように私たち人間の意識は深化していく必要があります。
ユダヤ人差別や、アメリカにおける黒人差別、アジア系などのマイノリティーに対する差別に代表されるように、差別と言うのはいつの時代にもどこの国にいっても存在します。
日本ではあまり人種差別の問題は表面に出てきませんが、実際は今でも差別は存在します。
例えば、在日朝鮮人差別というのは普段話題にされることはなく、タブー視されていますが、在日ヘイトという形で時にポッと表面化することがあります。
今ではほとんど無くなりましたが、40年前に田舎で白人や黒人の人が外を歩いていると、当時はまだ珍しかったせいか、子供たちが指をさして、「あっ!外人だ!」と言って、まるで宇宙人でも見るかのように珍し気に見ていたものです。
ただ、その当時の子供たちに悪意があったかと言うと、もちろんそんなことはなく、ただただ当時の田舎の方では白人や黒人の人が珍しかったということと、人種差別に対する教育が十分でなかったことが大きな理由でした。
子供たちにとっては、悪意とは逆にむしろ珍しいから興味深くて話してみたいという純真無垢な部分が大きかったのです。
しかし、指をさされた方の外国人は、「自分は差別を受けた」という悲しみでひどく心を痛めたことでしょう。
私自身も、1990年代後半にイスラエルに滞在していたことがあるのですが、特にパレスチナ人自治区に行ったときは、子供たちに珍しがられてよく話しかけられたものです。
当時のイスラエルでは、日本人というのはほとんど居なくて、子供たちにとっては珍しい存在だったのです。
ちょうど40年前に日本の子供が外国人を見たときと同じような感覚だったわけですね。
しかし、外国人としての私は、子供たちから珍しがられたり、「ジャパニーズ!ジャパニーズ!」と言われたりするのは苦痛でした。
さて、前置きが長くなりましたが、人種差別の根本原因について考えてみましょう。
まず第一に、「教育不足」があります。
特に、相手の気持ちを想像して思いやる道徳教育が徹底されていないことが大きいです。
では、学校や社会での教育を徹底することで人種差別というのは完全に消えて無くなるかというと、表面上かなり減りはするでしょうが、残念ながら根本的に無くなるということはありません。
なぜ無くならないのでしょうか?
理由は、私たち人間全てがもっている自我の構造にあります。
自我というのは人間が生きていくためには必要不可欠なもので、日々考えたり行動したりすることが出来るのは自我の働きによるものです。
電車で老人に席を譲るという行為ができるのも自我があるおかげです。
私たち人間が何かを学んで成長できるのも自我のおかげです。
しかし、この世の全ては二元構造になっており、良い面があれば必ず悪い面が同時に存在します。
わかりやすく例えると、コインの表と裏のようなものです。
(もっと言うと、本来は二元ではなく、良い悪いも無く、「非二元」というのが正しい実相なのですが、話がややこしくなるのでここでは触れないでおきます。)
で、自我には良い面もあれば悪い面もあります。
悪い面の中で、特に人種差別の根本原因になっているのは、
「罪悪感」
です。
聖書の創世記に書かれているアダムとイブの物語に象徴される「原罪」と似たようなものです。
罪悪感がある故に、「自分は裁かれるのではないだろうか」という恐れが生じます。
そして、この「恐れ」は無意識下において、怒りや悲しみを伴う忌むべきものとして捉えられ、自分自身を攻撃するようになります。
この無意識下に潜む、自分自身に対する攻撃性は、あたかも他者が自分自身を攻撃しているという錯覚を生じさせます。
この攻撃性という幻想を維持するために、人種差別というマイノリティーに対する攻撃、すなわち一種の集団ヒステリーが、自我にとって格好の「隠れ蓑」となるのです。
結局のところ、私たち人間が肉体をもって生きている限り、人種差別と言う問題は永遠に無くなることが無いのです。
仮に、学校や社会で徹底的に教育されて、表面上において人種差別という問題が無くなったように見えたとしても、何らか別の差別という形で無意識下に潜む攻撃性が現れてくることになります。
人種差別というのは、自我が表面化するパターンの一つにすぎず、国家間の戦争も根本原因は同じです。
ですので、人間が肉体をもって生きている限り、この世から戦争という悲劇が消えて無くなることはありません。
行き過ぎた資本主義社会による貧富の格差も、社会構造自体を根底から見直さない限り、完全には無くならないでしょう。
では、人種差別や国家間の戦争、社会におけるさまざまな揉め事は永遠に無くならないのでしょうか?
解決策は一つあります。
それは、私たち一人一人が、罪悪感が幻想であることを認め、罪悪感によって生じる攻撃性を赦すことです。
ここで言う「赦す」というのは、実在する悪いものを許してあげることではなく、そもそも罪悪感というもの自体が幻想であり、実在するものではないということを知ることです。
つまるところ、日々の生活の中で、赦しを実践することに尽きるのです。
人種差別に関するニュースを見たり聞いたりすると、ほとんどの人は悲しい気持ちや怒りの気持ちでいっぱいになります。
これは、無意識下に潜む罪悪感がそのニュースの上に投影されることで、内面に隠された幻想を感情を通して見てしまうことが原因です。
このとき行うべき赦しの実践は、心の中に生じた怒りや悲しみと言ったネガティブな感情を認め、素直に感じてあげて、そして「これらの感情は全て幻想によって生じているものだ」と自分自身に言い聞かせてあげることなのです。
学校や社会で、人々が無意識の働きや自我の構造について学び続けることで、人間社会はより住みやすい場所へと変わっていくことでしょう。
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