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子どもがどんな世界を見ているのか。擬似体験する試み。


「子どもに言葉でいくら言っても伝えられない。」

「子どもは環境からしか学ばない。」

とは、口では簡単に言えるし、頭では分かるけれど、それで子どもに対する行動が変わるのかと言えば、なかなか難しい。


「子どもってこういう世界に住んでるのかもしれない」と、私が個人的に感じた体験。それは映画の中にある。

いい映画やいい音楽は言葉だけではどうしても説明できないものを心に焼き付けてくれる。もちろん、どの映画でもいいって訳じゃない。


『世紀の光』(アピチャッポン・ウィーラセタクン・監督)

世界的に有名なタイの映画監督が撮った映画。


この映画を字幕なしで現地語のまま観る。それがどうして子どもの世界だと感じたのか。ポイントを以下にあげてみる。


①ストーリー性のなさ

アピチャッポン監督の映画には「ストーリー」がない。ストーリーを否定している人。

こどもの世界にも、ストーリはない。すべて辻褄があう物語の流れに生きているのではなくて、色々な場面が繋ぎ合わさって生きている。「これはこういうオチだ」「この場面ではこの行為が社会的に正しくてハッピーエンドだ」「ハッピーエンドがいいんだ」「これはこういうカテゴリーだ」とか、そういう世界には生きていない。輪郭がぼんやりしていて、規定できないふわっとした世界。

大人からすると、子どもは訳がわからない存在に見える。訳がわからないと、困ったり、不安になる。

安心したいから、なんとか訳の分かる範囲に収めておきたいと頑張る。でもできない。

いや、できるのかもしれない。でも、もしできたのだとしたら。何かを失っていっているということだと思う。

大人もかつて子どもだったはずだけど、社会に適応していくにつれて忘れていく。

社会に適応しなければ生きていけないし、いずれ適応することになる。それは悪いことではない。けれど、本当はそういう世界に生きているんじゃないんだ、という感性を育むのは幼少期にしかできない。

シュタイナーによると、この感性を育める臨界年齢は7歳ごろだと言われている。それ以後にこの感性を習得するのは難しい。知識や言語の習得の臨界年齢は高いからあとで取り返せるけれど、未規定なものに対する感受性は早くに閉じる。

それの何が問題なのか?

ストーリーや規定できるものにしか安心できなくなると、深い人間関係が作れなくなる。なぜなら人間関係はいつも分かりやすいストーリーになっている訳でもないし、人の気持ちだって行動だって、未規定だから。その耐性がつかないと、訳がわからない事柄や人間関係はすぐ諦めてしまう。

いくら社会や会社でうまくやっていけるスキルを身につけられたとしても(身につけることも大事だとは思いますが)、「大事にしたいと思う人と繋がりあえるスキル」「繋がろうとする気力」がなければ、どうやって、何のために、生きていけるのかなと考えてしまう。

それ以前に。そもそも、社会で生き抜くということは「勝ち負け」「優劣」「効率・コスパ」の世界。その世界しか知らない人にとっては、「無条件に」大事にしたいと思う人が現れることも難しいのだろうなと思う。



②言葉が分からない

タイ語で見ると、当然、何を言っているのか全く分からない。それがいい。

お腹の中から世界に出てきた子どもは、当然「言葉」を知らない。だとすると判断基準は何になるのか?

目の前にいる人の表情や声色。周囲にいる人々の行動や関わり方。そこから発生する場の雰囲気。

映画を見ていると、それがどういう感覚なのかがちょっと分かる。


③文化が分からない

私はタイの文化を全く知らない。「タイはこういう日常生活を送っていて、こういう儀式があって…」みたいな説明はもちろん映画中にもなくて。最後まで見てもやっぱり分からない。

同じように。生まれてきた子どもも、大人のやっている行動の意味がよく分からない。

それぞれの国で、それぞれのマナーや正解がある。けれど、人間社会の文化を持って生まれる訳ではない子どもにとって、大人の「そうしなければならない」というのは当然理解できない。

その国で生きていくにあたって、その国の文化やマナーは身につけていけばいいと思う(じゃないと生きていけないし)。

ここでは、その文化やマナーに意味があるのかどうかを問いたい訳ではなく、「どうしてできないの」「どうして分からないの」といって子ども怒るのは、こどもにとって意味不明なんだろうなという感覚を肌で感じること。

大人の行動が子どもにとって意味不明なんだろうな、と大人が知っていれば、無駄なイライラも減りそうだし、世間の目はこどもにとって寛容になるだろうし、文化やマナーを伝えるにしても「伝え方」の工夫ができるんじゃないかな、と考えたりする。


④人間は脇役

『世紀の光』での主役は、ヒトではない。「建物や植物」=「動かないもの」が主役。

これはアピチャッポン監督の哲学で、観客に伝えたいことの一つだと思う。哲学者ハイデガーが後期に主張していた「存在論的転回」に通じる。

例えば。タイムラプス撮影すると動くものはぼんやりし、長時間撮影すつると完全に消えてしまう。動くものは生成消滅する。「存在(する無生物や植物)」だけが不気味。

『世紀の光』でも、存在の森の中で人間は影絵として描かれている。

「人間が目的に従って道具を選ぶ」という発想が諸悪の根元だった、とナチスの経験を通してたどり着いたハイデガーは後期には「存在(物)が道具として人を使う」という発想に至る。

「小麦や車やスマホが人を媒介として増殖する」「物が人を道具として増殖する」という考え方。

「人が道具を選んでいる」という発想の中では、「人が選ばねばならない」との脅迫にかられる。こうして人は道具の奴隷になる。

人は所詮、道具に駆り立てられているだけ。

一見キテレツな考えに感じるかもしれないけど、今のコロナの状況とリンクさせて、何か感じるものがないだろうか。

この発想は、大人にはなかなか理解が難しいのに対し、中学生はよく理解できるらしい。子どもはまだ世界があやふやだからというのをよく表している。それが幼少期となると尚更あやふやだろうと思う。

『世紀の光』。旦那は開始2分でギブアップ。2歳と4歳の子どもは最後まで観賞。下の子は「もっかーい(もう一回観る)」。

「よくわからないものを切り捨てる」「よくわからないものに耐えられない」というのは、「子育てができない」ことと同義だ、と極端だけど私はそう思う。

「自分で色々なことを選んでいる」という盲信は、多くの過ちを生み出す。森や世界の視点から見ると、人間だけが不可思議で切り離された存在。

映画は最後の最後がまた衝撃。「人間って何してるんだろう」と思わずにいられない。また、それこそが人間なのだということも突きつけられる思いがする。

「所詮人間ってそんなもんだ」って心の隅に置きながら育児するのと「人間の世界が全てなんだ」と思って育児するのとは、子どもを見ていて感じることが変わる。

*****

『世紀の光』を、ここでは「子どもの世界を体験する」という視点でご紹介しました。でも、観ると分かると思いますが、アピチャッポン監督の映画は、それ以上にもっと深く語りかけるものが沢山あります。アートは「娯楽」ではなくて「人の心に傷をつけるもの」。たぶんいろんな衝撃が襲う映画だと思います。

Netflixなどのオンラインでの配信はもしかするとしていないのかも。。どこかで見れたとしても字幕が入ってしまっているかもしれません。DVD買うしかないのかな。希望する方がいれば観賞会することは出来るんだけど。この記事で興味を持ってくれる人は、果たしているのかしら。笑


■VEREIN PROJECT■ 
子どもととりまくソーシャルデザインを考えるコミュニティ 
HP  → https://momocat223530.wixsite.com/verein


【blog主】「2歳4歳子育て中の母」であり「保育士」。ふたつの現場での経験を社会学・人類学・哲学・政治学・宗教学・アートなどボーダレスな分野の知から考察。これから子どもたちが大きくなって船を漕ぎ出していく社会に疑問が沢山。同じような疑問や不安を持つ子育て世代と、気付き・学び・疑問などをシェアして考えたい。大阪府にて“子育てハウス”を媒介にした共同体を作りたいと企画中。
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