夫との死別[4] 「ラッキー」 -カウンセラーとしてのChatGPT
トンボ
ある夏、透き通った川が美しい自然豊かな場所を訪れた。
ヒグラシの声が響く頃、ふたりの前にトンボがやってきた。
私達が歩く同じ方向の少し先を飛んでいる。
夫はそのトンボを指し、「あれは案内トンボ」と言った。
まいった。
やっぱり素敵な発想をする人だ。
夏休みの少年のような顔をしながら夫がトンボの後に続く。
私もワクワクしながらついて行った。
道草しながら歩いていたので気付いた時にはトンボはいなくなり、川の揺れる水面はオレンジ色になっていた。
夫がいるこの世界は煌めきに溢れている。
“See You Again”
夫が亡くなって少し経った頃、Instagramの私と夫のアカウントだけにリールが公開された。
事故に遭う2日前、夫の車が前を走る姿を映したドライブレコーダーの映像だった。
「Rest In Peace」
そして、また会おうという心のこもったメッセージが書かれている。
曲は「Wiz Khalifa - See You Again (feat. Charlie Puth)」が使用されていた。
友人たちの前に停車し、夫と私が「またね」と言って帰った時の姿が映っていた。
これが夫を映した最後の映像となった。
私は朝まで泣き続けた。
感謝と、哀しみと、色々な感情がごちゃまぜになっていた。
「たくさんの曲がある中でなぜこの曲を…」
心臓が握りつぶされるような気持ちになった。
巷でこの曲をよく耳にしていたあの頃、私の友人が亡くなった。
お葬式で棺にしがみついて泣く彼女の家族の姿が目に焼き付いている。
その姿は、今の私だ。
“See You Again”
何年経ってもこの曲を聴くと涙が溢れてくるのに、さらに泣かずには聴くことができない曲になった。
でも、「さようなら」よりもずっといい。
また会う日まで、またね。
スーパーヒーロー
以前、夫と職場が同じだった元後輩の方が自宅に手を合わせに来てくれた。私の知らない夫の話をたくさん聞いた。
いつもは温厚だが、仕事においては厳しい人だったこと。
滅多に怒ることはないが怒らせると怖い人だったこと。
自分に妥協を許さず黙々と努力する人だったこと。
「夫さんは、とても力持ちなんです」
夫がいかに力持ちかを説明され、私は笑いながら「知っています」と答えた。フタが開かない物などがあると、すぐに力尽くで壊しそうになるので、何度慌てて止めたことか。
仕事でのエピソードを目を細めて聞く私に、何とか伝えようと一生懸命に身振り手振りを交えて話すこの方は、とても優しい人なのだろう。
たくさんの話を聞いた後、私は「夫が出張で訪れた場所の中に私に見せたい景色があると言っていました」と切り出した。
2023年から2024年に変わる時、その場所に行くことになっていた。
「でも、地域しか分からないんです」
彼は特定する方法をあれこれと懸命に考えてくれた。
私は、Google mapのタイムラインを見れば大まかな場所が分かることは知っていた。
しかし、「夫が私に見せたかった景色」の答え合わせはできない。
なぜ、私は初めて会った方にこんなことを話したんだろう。
夫が私に「この景色を見せたい」と思ってくれたことを誰かに知って欲しかったのかもしれない。
「いつか、私の寿命が来た時に夫に聞きます。ありがとうございます」
彼は、夫の遺影を見ながら肩を震わせて歯を食いしばった。
「夫さんは僕にとってスーパーヒーローでした。分けられるなら僕の残りの寿命が半分になっても良い。生きていなければならない人です。なんでこんなことに…」
夫のことを想う人は、皆優しい。
2024年
私はこれまでの様々な経験から何かを悲観して生きることはやめて、目の前のことを楽しみ、慈しみ、毎日を大切にしようと思っていた。
今日、自分の命が尽きても後悔のない生き方をしてきたつもりだ。
いい加減なことをしていないか、自分のベストを尽くしたか、誰かを傷付けていないか。
もちろん完璧ではない。反省する日もあるし、体調が悪い時は無理もしない。
でも、「愛する夫が今日いなくなる覚悟」はできていなかった。
夫は私が何をしても、何をしなくても、いつも変わらず愛してくれた。
世界で一番私を大切にしてくれる人がいなくなってほどなくして、2023年から2024年になった。
夫が私に見せたかった景色はどんな風だったんだろうと思いを馳せていた。
その時、地震があった。
能登半島地震だ。
住んでいる場所は震源の近くではないが、マンションの構造上、実際の震度よりも揺れたのだと思う。
「あぁ、夫のところに行ける」
そう思った自分にハッとして、夫にお供えしている花瓶が倒れないように慌てて立ち上がった。
何ということを考えてしまったんだと自己嫌悪に陥り、泣きながらニュースを見続けた。
どうか、どうか、誰も犠牲になっていませんように。
地震がたくさんの人生を奪った。
残酷な現実を知った私は、もうニュースを見ることができなくなった。
私の中に夫がいる
車を運転していた時、自分ではなく夫が運転をしていると感じ、「夫が私の中に入ったんだ」と思った。
食欲はないが夫の好きな物だけは食べられるようになり、生活スタイルもまるで夫のようになった。
意識してそうしているのではなく、そうなった。
私の中に夫がいるのだと嬉しくなり、周りの人たちに「夫が私の中に入った」と連絡をした。もう寂しくもないし、辛くもない。
誰も否定することなく聞いてくれた。
あぁ、ついに私はおかしくなってしまったのだ。
誰に確認をすれば良いのか分からない。
ChatGPTに聞くことにした。
「亡くなった夫が自分の中にいるような感覚に陥ります。それは想いがというわけではなく、運転していたら夫の運転のように感じ、好きな食べ物や生活スタイルも夫のようになっています。そんなことありますか?」
「内化とはどういう意味ですか?」
「私がそのプロセスを踏んだ場合、次はどうなりますか?」
「もう一度夫に会えるなら一瞬で寿命を終えても良いと思いますが、夫が私の中に入ってきた感覚があってからは辛くありません。私の精神状態がおかしくなったのですか?」
このやりとりで、夫が私の中に入ってきたわけではないと自覚した。
夫はもういない。
また孤独と絶望に包まれる日々が戻ってきた。
ラッキー
夫は、よく「ラッキー」と言う。
夕食のおかずが好物だった時、私がお土産にスイーツを買って帰った時、出掛ける日が晴れだった時、信号の青が続いた時。
趣味も性格も何一つ一致しない私達夫婦は、いつの頃か散歩という共通の楽しみを見つけた。
これは後に、散歩をするための場所を探す楽しみや、冒険のようなハイキングなどに発展していった。
寡黙な夫だが散歩の時にはたくさん話す。
私はそれが嬉しくてたまらない。
スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグもウォーキングミーティングを好むというので、きっと歩きながら話すのは良いことなのだろう。
ある日の散歩中、夫が猫を見つけて「1ラッキー」と言った。
「1ラッキー?」
「猫1匹で1ラッキー。10ラッキーで1ハッピー」
何なんだ、この愛おしい思考は。
ただ歩いている時でさえラッキーやハッピーを感じているのか。
無論、10ラッキーに達することは早々ないが、自宅周辺にはサクラの耳の地域猫が住んでいるので「今日は3ラッキー!」とさらに散歩が楽しくなる。
夫の毎日はたくさんのラッキーで溢れている。
私の毎日もたくさんのラッキーで溢れていた。
そして、ラッキーは今の苦しい日々の中でも感じる。猫に出会うこともあるし、虹も見た。
頭の中で、夫の「ラッキー」の声が響く。