【エッセイ】カイロなメイドさん
「まあ、仲良くやってよ!」
夫はそう言うと、仕事に出かけた。
エジプト・カイロに着いたのはクリスマス前。カイロで働く夫と年末年始を過ごし、3月には夫の誕生日を祝い、4月中旬に帰国する、そんな予定で日本からやって来た。
はるばる来たのだから、街歩きを楽しみたい。しかし、ここカイロもコロナ禍にある。ステイホームとなる私にとって、一番の関心事は、毎日やってくるメイド。どんな人だろう? 気が合う人なら、きっとステイホームも楽しくなるはず……。
午前10時半、ドアベルが鳴った。急いで玄関へ行くと、全身黒ずくめの女性が立っていた。黒い大きな布を頭からかぶっている。中は透けて見えない。下は靴さえも見えない。
イスラム教徒の女性は、ヒジャーブで頭を覆うことが義務とされているが、どこまで覆うかは個人に任されている。カイロでは頭と首だけを覆うラフなスタイルが多い。顔は隠さない女性が多いのに、目の前に立っているこの人は、顔も隠している。ただ目元だけが細長くあいていて、奥から私を見ていた。そのまなざしは、とても優しかった。そして、黒い中から明るい声が聞こえてきた。
「グッドモーニング」
このとき、思った。この人となら大丈夫! 私の第一印象はけっこう当たるのだ。
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さっそく彼女は納戸に入って行った。しばらくすると掃除道具を持って出てきたのだが、その姿は別人だった。頭からグレーの短いベールをかぶっているものの、顔は見えている。マスクをしていても、私より若いことはわかった。赤とグレーのチェック柄の長袖シャツに、グレーの長ズボン。素足にサンダルを履いている。身長は私と同じくらい。
夫が住むマンションは二百平米の3LDK。どのように掃除していくのか気になった。本を読む振りをしながら、そっと見守ってみた。
まず主寝室に入り、シーツを取り替え、洗濯機を回す。床をはき、大きなモップで水拭きする。3つある浴室を掃除して、洗濯物を干す、これが基本形。加えて、ベランダを掃除する日もあれば、窓ガラスを磨く日もある。
彼女がこの部屋で働き始めて、1年がたつ。自分で計画を立てて仕事をしていた。しかも掃除した後は、髪の毛1本たりとも落ちていない。掃除が苦手な私は早々に負けを認めた。
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「彼女に英語は通じないから」
これは夫の印象だが、簡単な英単語だけをつなげると、けっこう通じる。私の英語力とどっこいどっこいだった。
1月のある朝、お弁当の厚焼き玉子を焼こうとしたら、火がつかない。出勤してきた彼女に単語とジェスチャーで伝えると、すぐに電話してくれた。しかし、ここは日本ではない。早くて明日だろうと覚悟したが、1時間後にガスボンベを持った作業員がやって来た。
古いガスボンベが置いてあった所は汚れていた。彼女は作業員に何やら言って、新しいのを置く前に、丁寧に水拭きをした。そして火がつくことを確認して、帰って行った。
2月のある週末、夫と散歩中に足首を捻挫した。治るまでの3週間、足を引きずって歩く私を、彼女は心配そうに見守ってくれた。
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「大切な物はしっかり仕舞ってね」
夫に再三言われている。同僚からカイロなメイドたちの悪評を聞いていた。日本製の包丁を勝手に持ち帰るとか、スリッパや短パンがいつの間にかなくなるとか。しかし彼女は、今まで一度もそんなことはなかった。
しかし、彼女でも出来心で……、ということもあり得る。そんな気持ちを起こさせないように、私たちが気をつけなければと思う。
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いつだったか、台所の床を水拭きしていた彼女が、珍しくため息をついた。私の視線を感じたからか、自分の手を私に見せた。人差し指が少し曲がっている。働き者の大きな分厚い手だった。40歳の手には見えない。この手で3人の男の子を育てているのか……。
エジプトは国土の90パーセントが砂漠で、しかも雨は年に数回しか降らない。窓の隙間から砂埃が毎日入ってくる。二百平米を隅々まで水拭きすることはさぞかし重労働だろう。
翌日、ハンドクリームを買って手渡した。
「シュクラン、シュクラン(ありがとう)」
彼女は胸に手を当てて、何度も言った。
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4月2日からラマダンが始まった。イスラム教徒は1か月、日の出前から日没まで飲食禁止。日が出ている間は、水も飲まずに働く。
「彼女の前で飲み食いはしない方がいいよ」
夫はそう言うと、今日も仕事に出かけた。
(2022年4月7日に書きました)