第1章-6 (#6) 月桜がいなかったら…[小説]34年の距離感 - 別離編 -
「長濱くんを取らないで」
幸冬の気迫に押され、わたしはそこに立ち竦んだ。昼間でも薄暗い裏山は、もうすっかり夕闇に飲まれ、嫉妬に揺らめく幸冬の輪郭を一層際立たせている。塾の近くには、山際に建設中の病院に続く工事車両が通る砂利道があった。わたしは幸冬に、その砂利道を少し入ったところに呼び出されていた。
幸冬はポケットにカッターを忍ばせているかもしれない。頬を切られる映像が、まるで映画の予告のように、まぶたの裏に映し出される。幸冬に何かされるんじゃないか? 怖くて体が動かない。傷つけられる恐怖に服従する以外に、選択肢は見つからなかった。
小さく頷くと、幸冬は念を押すように続けた。
「絶対だよ。約束して」
強引に交わした約束に気が収まったのか、幸冬は暗闇に消えていった。
ふぅ……やっといなくなった。身体中の力が抜けて、わたしはその場にしゃがみ込んだ。ぽたぽたと涙が零れ落ちる。
今日学校で、長濱くんに「好き」と言われたことを思い出していた。
恋がどういうものかなんて、まるでわかっていなかった。付き合うとか、付き合わないとか。彼氏とか、彼女とか。そんな契約を交わさなくても、そんな称号を与え合わなくても、長濱くんは月桜が好き。月桜も長濱くんが好き。好きな気持ちはそこに在るのに。気持ちを伝えるってどういうことなの?
嫉妬に狂った幸冬の様子から、長濱くんが幸冬に「月桜に気持ちを伝えた」と宣言したことは想像に難くなかった。
幸冬に脅かされたと相談したら、長濱くんはわたしを守ってくれるのかな?
もし月桜がいなかったら、長濱くんは幸冬を好きになったのかな?
そしたらふたりはしあわせだったのかな?
あの日から長濱くんとどう接すればいいのかわからなくなった。わからないから長濱くんを避けてしまう。避ければ避けるほど、どうすればいいか、どんどんわからなくなる。
混乱するたびにこの言葉を引っ張り出していた。
「月桜がいなかったら、ふたりはしあわせだったのかな?」