ツァリツィノ ロマンチックな散歩
前回に続けて、ツァリツィノについての動画を出してみました。
前回は、ガイドさんの案内で、ツァリツィノの宮殿部分を中心に歩きました。
今回は、宮殿部分に加え、ツァリツィノの自然を身近に感じることのできる水辺や森の部分も歩いてみました。
天気は、晴れたり、曇ったり。あっという間に変わってしまう秋の天気です。
ゆっくりと落ち葉を踏みしめながら歩きたい気分ですが、そうは行かないのが、せっかちな私の性格でしょうか。
朝早めに、ツァリッチノの正門を通って、噴水のある方向へ向かって歩いて行きます。
庭や水辺では、まだ朝が早いせいか、鳥達は、じっとして、まどろんでいるようです。
今回の散歩のルートは、以下の通りです。
(1) イルミネーション音楽噴水
(1) 丸い島が見える水辺
(2) 鴨や鳥達が集まっている水辺
(3) スフィンクスのある桟橋
(4) フィギュアドブリッジ
(5) 宮殿と公園のアンサンブル
(6) 小宮殿
(7) 中宮殿(オペラハウス)
(8) フィギュアド(ブドウ)ゲート
(9) ミロヴィッド パビリオン
(10) 廃墟塔
(11) マーメイドゲート
(12) ガゼボ「ケレス神殿」
(13) ダイアナの像のある洞窟
(14) ネラスタンキノ パビリオン
(15) グロテスクな橋
(16) 大宮殿
(17) フィギュアドブリッジ
(18) 聖母マリアのイコン「命を与える泉」の教会
(19) 第三騎兵隊棟
(20) 渓谷にかかる大きな橋
散歩で通った各地点についてツァリッチノの公式サイトやインターネットのサイトに基づき、ご参考までに少し補足説明します。
(1) イルミネーション音楽噴水
池の中の島に噴水があります。あいにく、噴水は、夏しか作動していないとのこと。秋は、おしゃれな丸い半球のカバーでおおわれています。
夏の夜に来てみたいものです。
(2) 池
この池は 17世紀半ばに敷地内に現れました。
パイク、タイ、フナ、チョウザメ等がそこで育てられました。
その後、温室に水をまくため水が取られました。
カンテミール家は池にいくつかの人工島を作りました。
エカチェリーナ 2世の統治下で貯水池は拡張され、深くなりました。
皇后はお気に入りのグリゴリー・ポチョムキンと一緒にボートに乗るのが大好きでした。
しかし、彼女の死後、池は草で覆われてしまいました。
モスクワの宮殿と庭園の責任者、ピョートル・ワリョフが 1804年に再建しました。
池に見える丸い島(Round Island)は、カンテミール家が作った人工島で
す。
(2) 鴨や鳥達が集まっている水辺
池の周りには、鴨や鳥達が集まっています。日本でよく見るみどり色の羽の綺麗な鴨。そして、オレンジ色の鳥も鴨です。公園に遊びに来た親子連れが楽しそうに、餌を与えています。ガイドさんの話では、これらの鳥達は、公園に十分な食べ物があるため、越冬のために、遠くへ飛んで行かないそうです。
(3) スフィンクスの彫刻で装飾された桟橋水辺に、スフィンクスの彫刻で装飾された桟橋があります。このスフィンクスの桟橋を入れて池に浮かぶ丸い島を撮ると素敵な写真が撮れるようです。
(4) フィギュアドブリッジ
フィギュアド ブリッジは、皇后エカチェリーナ 2世のために設計されたツァリツィン アンサンブルの最初の建物の 1つです。この橋は、建築家ワシリー・イワノビッチ・バジェノフの設計に従って1776年から1778年に建設されました。橋は、池の水辺の岸にうまく溶け込み、2 つの高い土の丘を繋ぎ、宮殿と公園のアンサンブルの敷地への正面玄関を形成しています。
(5) 宮殿と公園のアンサンブル
フィギュアド ブリッジのアーチの下を通過すると、宮殿と公園のアンサンブルの中心部にいることになります。ここに入るとクラシック音楽が聞こえてきます。ツァリツィン・アンサンブルの建物は、当初、建築家ワシリー・バジェノフの設計に従って、皇后エカチェリーナ 2世の田舎の邸宅として建てられることになっていました。
しかし、1786年にバジェノフは事業から追放され、別の建築家、マトヴェイ・フェドロヴィッチ・カザコフが建設を続けました。これについては、前回のNoteをご参照ください。
(A)大宮殿
大宮殿はツァリツィンのアンサンブルの中で唯一、建築家マトヴェイ・カザコフの設計に従って建てられた建物です。
この宮殿は、皇后の命令により取り壊された バジェノフ宮殿の建物の代わりに、1786年から 1796年にかけて建てられました。敷地には、取り壊された建物の基礎が残っています。
建築家カザコフは、バジェノフの他の建物とのつながりを維持しながら、すでに確立されたアンサンブルの中に新しい壮大な建物を「組み込む」必要がありました。残念ながら、カザコフには建設を完了する時間がありませんでした。 1796 年にエカチェリーナ 2 世が亡くなり、彼女の子孫は皇后が始めた仕事を完遂することを敢えてしませんでした。時が経つにつれ、王宮は廃墟となりました。
2007 年に修復工事が完了した後、王宮の敷地は博物館のコレクションの展示に使用され始めました。
(B)ブレッドハウス
バジェノフは 1784 年から 1785 年にかけてブレッドハウスを建設しました。
この建物は、角が丸い巨大な立方体の形で作られています。地下室は氷で冷やされた食料貯蔵室(18世紀の冷凍庫)、薪、その他の保管のために
確保されていました。他の階にはキッチン、ペストリーショップ、及び、さまざまなユーティリティルームが収容されることになっていました。
(6) 小宮殿
小宮殿は、バジェノフの設計に従って 1776年から 1778年に建てられました。
それは階段状の土のピラミッドの最上部のプラットフォームに設置されており、池の面からほぼ20mの高さまでそびえ立っています。
1803年から 1804年にかけて、ツァリツィノは一般公開され、宮殿はコーヒー ハウスとして貸し出されました。長期間にわたる破壊の後、1987年から 1996年にかけて博物館で使用するために修復されました。
(7) 中宮殿(オペラハウス)
中宮殿は小宮殿と同じライン上に配置されています。 1776年から 1778年にかけてバジェノフによって建設されました。別の一般的な名前であるオペラハウスというのは、オペラ公演を行うことを目的としたため、19世紀初頭に付きました。
(8) フィギュアド(ブドウ)ゲート
オペラハウスの後ろにはフィギュアドゲートが立っています。
バジェノフは、1777年から1778年に建てられたこの門を、「庭園の端にある門」、「美しい姿をした門、そして真っ直ぐで穏やかなゴシック建築」と呼びました。 二つ目の名前「ブドウの門」は、尖ったアーチの開口部にある白い石の装飾がブドウの房のように見えることからかと思われます。
フィギュアドゲートはエレガントな公園のアイデアであり、建築群と公園の境界を示します。
フィギュアド ゲートからは、歴史的景観公園の路地や小道に沿って歩くことができます。
(9)ミロヴィッド パビリオン
ミロヴィッド パビリオン (「ミロヴィドヴァ ギャラリー」) は、19世紀初頭のツァリツィン公園で最も優れた建物の 1 つです。 1803年から1804年に建てられました。おそらくワシリー・バジェノフの弟子である建築家イワン・エゴトフの設計に基づいていると思われます。パビリオンはツァリツィン公園の最も美しい場所に建っています。 1800年代、その壁からは人工島のあるツァリツィンスキー池上部の湾の素晴らしい景色が望めました。現在、このパビリオンには、カフェがあり、散策している人達の人気の休息の場所です。カフェから見る池の眺めはとても素敵です。
(10)廃墟塔
ツァリツィン公園で最もロマンチックな建物です。これは荒廃した中世の塔で、壁の隣接部分はレンガと白い石で作られています。この塔は建築家イワン・エゴトフの設計に従って 1804年に建てられました。研究者たちは、その外観を 18世紀末から 19世紀初頭の人工遺跡の流行と関連付けています。当初、塔の頂上には 4 本の柱を備えた明るい展望台が置かれていました。北壁の尾根に沿って石の階段が上っています。19世紀の終わりまでに、廃墟の塔は徐々に劣化していきました。20 世紀には、ロック クライマーのトレーニングに使用されました。2007年に、廃墟の塔は修復されて再開されました。
(11)マーメイドゲートツァリツィノ池の上の真ん中にルサルキン島があります。マーメイドゲートというアーチがあるので、簡単に見つけることができます。建築家イワン・エゴトフの設計に従って 1804年に建てられました。当時、ロマンチックな庭園の建物は非常に人気がありました。昔はアーチの下に水(小川)があり、船が通行できました。このアーチは、ツァリツィノで野外公演が開催されたときの舞台の背景としても機能しました。なぜマーメイドゲートという名前が付けられたのでしょうか。それは、この島では真夜中になると本物の人魚が見えると信じられていたからだと言われています。それはずっと昔のことです。
(12)ガゼボ「セレス神殿」
「セレス神殿」は、ツァリツィン景観公園の南端にある小さな望楼です。建築家イワン・エゴトフの設計に従って1805年に建てられました。ガゼボの場所は偶然に選ばれたわけではありません。1775年の夏、ツァリツィンを購入した後、エカチェリーナ 2世はここの丘から田舎のお祭りを眺めていました。お祭りは、地元の農民の参加を得てグリゴリー・ポチョムキンによって皇后のために行われていました。19世紀末、ツァリツィンでダーチャの大規模な建設が始まりました。同じ頃、展望台からセレスの像が消えてしまいます。
1925年、ツァリツィン アンサンブルはグラヴナウカ (科学、科学、芸術、博物館機関の国営の主要運営総局)の管轄下となりました。郷土歴史博物館もオープンしました。そこで、「セレス神殿」を改修することが決定されました。なくなった彫刻の代わりに、モスクワ近郊のルキノ邸宅にあるセレスの像が台座に置かれました。
大祖国戦争中、「セレス神殿」は甚大な被害を受けました。
1954年以来、ガゼボの段階的な修復が始まりました。
しかし、その最後の歴史的な姿が返されたのは 2007年のことです。
2019年、この像は激しい磨耗のため解体されました。
新しい彫刻を作成する作業が進行中とのことです。
(13)ダイアナの像のある洞窟
19世紀初頭、ツァリツィン公園はパビリオン、展望台、橋だけでなく、洞窟、彫像、装飾的な花瓶などでも飾られていました。
主な道を飾り、人々を楽しませました。これらすべての公園の装飾は文学的な説明やアーカイブ文書で知られていますが、残念なことに、今日まで残っていません。
現在までに、「朝の小道」沿いの小さな洞窟が再現されています。
ネラスタンキノ パビリオンの下の丘の中腹に赤レンガと白い石で建てられています。
彫刻家アレクサンドル・ススリコフの彫像が、この新しく出現したツァリツィン洞窟に安置されています。
(14)ネラスタンキノ パビリオン
ネラスタンキノ パビリオン (憂鬱の神殿としても知られています) は、小さなギャラリーです。建築家イワン・エゴトフの設計に従って、1803年にわずか数か月で建てられました。建設はシェレメーチエフ伯爵の農奴農民によって行われました。
研究者らによると、このパビリオンの名前は周囲の叙情的な風景とツァリツィンスキー池上層の壮大な眺めに由来しており、「これを手放すことはできない」というロシア語に関連しています。19世紀初頭以来、ツァリツィノは田舎の散歩に人気の場所となりました。1870年代の初めまでに、ツァリツィン公園は荒廃していきました。「ネラスタンキノ」も他の建物と同様、徐々に老朽化が進んでおり、屋根と柱の外装が著しく損傷していました。
そして1920年から1930年代、レニンスキー地区議会は、それを公園図書館の閲覧室として改修しようとしました。
1960年代から1980年代にかけて、「ネラスタンキノ」は何度も改修と修復が行われています。
そして2007年になって初めて、パビリオンは歴史的な外観に復元されました。
(18)聖母マリアのイコン「命を与える泉」の教会
聖母マリアのイコン「命を与える泉」の教会は、宮殿の敷地内で最も古い建物です。宮廷儀式日誌の記載には、エカチェリーナ2世がこの寺院を訪れたことが記されています。この場所に最初の木造教会は1680年代に、当時の敷地の所有者であったヴァシリー ゴリツィン王子によって建てられました。1722年、この地所の新しい所有者であるドミトリー カンテミール王子は、木造寺院の跡地に、下部が石、上部が木製の新しい寺院を建設しました。
1759年から1765年にかけて、完全な石造りの教会が建てられ、19世紀の 80年代には鐘楼が再建され、食堂が拡張されました。 1930年に教会は閉鎖されました。現在、礼拝が再び教会で行われています。このため、寺院は信者に返還され、本格的な修復作業が行われました。
(19)第三騎兵隊棟
建築家ヴァシリー・バジェノフによって設計され1776年から1779年に建てられました。バジェノフ自身、図面の中でそれを(最初の2つの騎兵隊棟と比較して)「3番目の家」または「小さな家」と呼んでいます。
「騎兵隊」という言葉は現代的なもので、1947年から使われ始めています。スタイルとデザインにおいて、第3騎兵隊棟は他の 2 つの騎兵隊棟とは大きく異なります。その目的を正確に定めることはまだ不可能です。
しかし、皇后が明らかに重要視しているのは第3棟であり、建物の図面には皇后自身が編集したものを見ることができます。
第3騎兵軍団はツァリツィン池中流近くの絵のように美しい丘の上に立っています。 レンガ造りの平屋建てで、ランセット窓と丸みを帯びた外角を備えた建物です。建物の頂上には優雅なベルヴェデーレの塔が立っています。
第3騎兵軍団の内装仕上げ工事は 1784年に始まります。
しかし1785年、エカチェリーナ2世は新居を拒否し、バジェノフ氏は解任されました。工事がストップしてしまいました。しかし、その後の数年間、この建物は他の建物とは異なり積極的に使用されました。
19世紀初頭、ツァリツィノは田舎の散歩に人気の場所でした。この点で、アンサンブルのいくつかの建物はカフェや娯楽施設に改装されました。
1830年代初頭まで、第3騎兵隊棟は「居酒屋兼旅館」として使用されていました。 建物は徐々に老朽化が進みます。ベルヴェデーレの塔が崩壊します。1872年以来、大学顧問のイワン ダビドフによってダーチャとして使用されています (彼はツァリツィンのすべての温室も借りています)。その結果、第3騎兵隊棟は大幅に変更されました。
1917年の革命後、ツァリツィノはレニーノ村に改名されました。
この建物には政治・スポーツ青年同盟のボリシェヴィキ・クラブが入り、その後、 F.シュクレフ名称レーニンクラブが入居しました。
1927年、十月革命10周年に、第3騎兵隊棟にツァリツィノ歴史・芸術・郷土伝承博物館が開館しました。これは人気があり、毎年2万人以上の市民がバジェノフの絵画のコレクションやヴャチチ古墳からの出土品を見に来ていました。
1930年代、集団化の波に乗って、博物館は園芸地区レーニン郷土伝承博物館に改名されました。展示会の性質は農業に向けて大きく変わります。肖像画と燭台の場所は、トラクターと鋤の模型によって占められています。第三騎兵隊では「収穫の日」展示会と「春の種まき運動」展示会を開催。最終的に博物館は一般の人気を失い、閉鎖されました。1937年から 1973年までこの建物には映画館のある地区文化会館が入居しました。
1984年、モスクワに国立ソ連人民装飾応用芸術博物館が開館しました。
初代館長で芸術家のイリヤ・グラズノフの尽力により、ツァリツィンのアンサンブルとそのすべての建物は美術館の管轄下に置かれました。
第3騎兵隊棟には総局と保管施設が入居しました。
1998年から2003年の修復作業の結果、建物は歴史的な外観に復元されています。
(20)渓谷にかかる大きな橋
1778年から1784年に建てられました。建築家ワシーリー・バジェノフによれば、ここから邸宅の宮殿部分が始まるはずでした。高さ 80mのパラドニ橋は、18世紀に現存するすべての橋の中で最大であり、ロシアの橋梁建設の傑出した傑作と考えられています。この巨大な構造は、基部が広く、上部が狭いアーチ状のスパンのおかげで軽く見えます。橋は豪華かつ複雑な装飾が施されています。
アーチはゴシック様式の大聖堂の門を思い出させます。赤いレンガの壁は白い石の幾何学模様で装飾されています。1784年までに橋は完成しましたが、欄干だけが欠けていました。しかし、1785年、皇后はバジェノフを解任しました。
19世紀初頭、バジェノフの弟子である建築家イワン エゴトフの指導のもと、橋の側面部分が完成しました。路面が舗装されました。柱櫓を備えたレンガ造りの欄干が完成しました。19世紀末以来、この橋はツァリツィノ道路の一部となり、ツァリツィノ駅とカシルスカヤ道路を結んでいます。大祖国戦争中、戦車隊が橋を通過しました。
1975年、ツァリツィン邸の敷地内での自動車交通は閉鎖されました。この時点で橋はすでに老朽化が進んでいました。
1985年から2007年にかけて大規模な修復工事が行われ、崩壊したアーチ上の通路と欄干が修復され、多くの装飾エレメントが再構築されました。現在、ビッグブリッジの外観は 19世紀初頭の姿に完全に復元されています。
以上、今回もだいぶ長い文章になってしまいました。
帝政時代、ソ連時代、そして、ロシアの時代という幾つかの時代を変遷してきたツァリッチノを説明するとなるとどうしても長くなってしまいます。
今回ツァリッチノを散策しながら、ツァリッチノの美しい建物、公園、そして自然は、さまざまな時代を越えながら、たくさんの人々との関わりを越え、老朽化しながらも、何回も修復されて、よみがえり、人々を引き付ける魅力があるところであることを感じました。
そんなツァリッチノの魅力を皆さんが感じて下さればと思います。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
私なりの目線で捉えた動画です。ぜひ動画もお楽しみください。