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モスクワの美しい秋 コローメンスコエ アレクセイ・ミハイロヴィチの宮殿と木造建築

前回のコローメンスコエ散策の後、コローメンスカヤ公園を1日で散策することはできな
いということに気づきました。
コローメンスコエ公園では、アレクセイ・ミハイロヴィチの宮殿と広大な敷地に広がる木
造建築は、絶対に見逃すことが出来ない場所です。
そこで、2日目に現地に行くことにしました。

【1】アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝の宮殿
アレクセイ・ミハイロヴィチは、サンクトペテルブルクを建設したピョートル大帝の父であり、初代ロマノフ皇帝ミハイル・ロマノフの息子です。
アレクセイ・ミハイロヴィチ帝の時代、モスクワのロマノフ王朝は最盛期を迎えました。アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝の宮殿は、17世紀から18世紀にかけてコローメンスコエの中心地でした。

宮殿の建設は1666年にアレクセイ・ミハイロヴィチのもとで始まり、息子のフョードル皇帝のもとで継続されました。

すべては大工長セミョン・ペトロフとストレツキー長(警備長)イワン・ミハイロフによって管理されていました。宮殿の建設には最高の職人が集まり、武器庫の最も経験豊富な彫刻家、指物師、聖像画家が装飾に取り組みました。

当時、釘を使用していないという理由で諸外国から、宮殿を「世界八番目の不思議」と呼ばれていました。

その装飾の多様性は今見ても印象的です。
宮殿には、さまざまなアンティークな形の屋根、多数の窓、彫刻が施されたポーチがあります。

木造宮殿は約1世紀にわたってその場所に建っていましたが、その後、エカテリーナ2世の命令により、「老朽化のため」解体されました。

しかし、保存されていた図面と測定値のおかげで、2010年に復元することができました。

コローメンスコエ博物館保護区の歴史的完全性を崩さないよう、公園の南部に宮殿を復元建設することが決定されました。

宮殿の修復作業には、木工芸術家、陶芸家、金工職人、呉服職人、室内装飾職人など、20の異なる専門分野から200人以上が雇用されました。作業は2007年から2010年までの3年間続きました。

今回は、宮殿の内部の見学のエクスカーションに参加しました。
(1) フロントポーチ(正面玄関)
美しい正面のポーチは、宮殿への正面玄関として機能しました。
宮殿のしきたりでは、ツァーリだけが馬または荷車に乗ってそこに近づくことができたそうです。

(2) フロントキャノピー
宮殿の中に入った途端、インテリアの美しさに圧倒されました。天井画がとても素敵です。
宮殿への訪問者は、ポーチの上部のプラットフォームから、錬鉄製の両開きドアを通って、ツァーリの正面玄関ホールに入ります。
ゲストはここで受付を待ち、宮廷の儀式に応じてここから指定された部屋へ行きます。

(3) ダイニングルーム前の天蓋
宮殿を案内するガイドさんは、宮殿が建っていた当時の服装をしています。とても綺麗です。宮殿の時代に浸ることが出来ます。

ガイドさんからは、宮殿の歴史や、アレクセイ・ミハイロヴィッチの日常生活について、話を伺いました。ダイニングルーム前の天蓋は、前室の一部です。

梁、天井、ドアには複雑な彫刻や金を使った装飾が施されています。
シャンデリアは、きらきらと輝いています。ステンドグラスも鮮やかです。
17世紀の歴史的類似物に従って作ったチェスト、ベンチ、キャビネット。
象を描いた織物が赤い布張りがしてある壁に掛かっています。


(4) ダイニングチャンバー
ダイニングルームは宮殿の中で最も大きく、最も厳粛な装飾が施された部屋です。

最も重要な宮殿の儀式はこの部屋で行われました。
ここでは外国人客を迎え、祝宴が開かれ、教会の祝日が祝われました。
宮殿の儀式の間、国王は豪華な天蓋の下にある玉座に座りました。
結婚式、出産、誕生日、葬儀などの場合にのみ、彼の妻は国王の隣に座り、そのために2番目の玉座椅子が設置されました。

テーブルが、ダイニングルームの壁の近くに置かれていました。
テーブルはどこからでもツァーリが見えるように配置されています。

天井には、惑星や黄道十二宮のイメージと四方位の寓話を四隅に描いた象徴的な絵画「天の黄道帯」が飾られています。

入り口の棚には、当時お酒を飲むためのカップが展示されていました。
このような大きいカップで飲んでいたら、お酒の弱い人は、すぐ、酔っぱらいそうです。


外国のお客様をお迎えする際には、たくさんの食事が出されたそうです。
あいにく、どれくらいのメニューがあったのかは、覚えていませんが、相当の数のようでした。ツァーリの服装がゆったりしているのは、そのためだとも言われました。

ダイニングルームには、17世紀のオリジナルのタイルを当時の特徴的な焼成技術を使用して再現した、カラータイルで装飾された暖炉があります。

(5) 浴室
王宮では、浴場は地下室またはリビングルームと同じ階に配置されていました。浴室の再建は、1742 年の宮殿の目録に基づいて、ロシアの浴場の伝統に従って行われました。

浴室の隅には緑色のタイルが敷かれた暖炉がありました。ロシアの浴場の主な付属品である密閉式ヒーター付き暖炉の再現は、現代の再建の実践におけるユニークな例です。

暖炉は、コローメンスコエの領土での考古学的発掘中に見つかったオリジナルのタイルの類似物に基づいて再建されました。

(6) 玉座の間
玉座の間は王宮の玉座の間として機能しました。
玉座の間では貴族たちの面前で、豪華な衣装を着て、外国大使たちを厳かに迎え入れていました。
玉座の間は非常に豪華で、臣下や外国大使に国家の偉大さと権力を誇示しました。

いくつかのインフォメーションでは、コローメンスコエにあるアレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝の玉座はライオンによって守られており、そのメカニズムはライオンが「まるで生きているかのように咆哮し、目を動かし、口を大きく開ける」ように設計されていたということでした。

聖書の原型であるソロモン王の玉座をその場にいた人々に思い出させるものと考えられています。

玉座の間の特別な特徴は、聖書の王ダビデとソロモンを描いた天井と壁を飾る絵画です。絵画の主題は、「レクト」(挿絵入り)聖書や西洋彫刻から借用されています。

(7) 皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチの部屋(執務室)
君主は一日のほとんどをこの部屋で過ごしました。
ここでツァーリは国政に従事しました。

(8) 寝室
思いのほかベッドが小さいのに驚きます。

(9)十字架(祈り)の間
十字架(祈り)の間は、ツァーリの個人の部屋で、ツァーリはイコノスタシスの前で早朝と夕方に祈りました。


(10)ドゥーマ チャンバー
ドゥーマチャンバーは、ツァーリの私室の応接室として機能しました。

(11)教師の部屋
教育室は、ツァーリの息子たちを教えることを目的としていました。

(12) ツァレーヴィチ・フョードル・アレクセーエヴィチの部屋
ツァレーヴィチ・フョードル・アレクセーエヴィチ(1661年 – 1682年)、アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝の9番目の子です。1676年、予期せぬ死を遂げた父親に代わって、16歳の王子が国王に即位しました。


(13) ピョートル1世のキャビネット
皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチの息子であるピョートル大帝 (1672年-1725年)の生涯に於いて、彼の父が建てた宮殿は重要な役割を果たしました。

ここでピョートルは読み書きと数え方を学び、小さな船団に囲まれ、ボートでモスクワ川を下ってセーリングに出かけました。そして、ここで彼は軍事への願望が芽生えました。

【2】木造建築
1923年にコローメンスコエに博物館が設立されました。
その創設者であり最初のディレクターは、建築家で修復家のピョートル・ドミトリエヴィッチ・バラノフスキーでした。彼は博物館のコレクションの収集を開始し、国の北部へ数回遠征を組織しました。

コローメンスコエには、彼が収集に関係した木造建築があります。

以下は、動画で紹介した、コローメンスコエにある木造建築です。

(1) 聖大殉教者ジョージ勝利者教会
聖大殉教者ジョージ勝利者教会は、1685年にアルハンゲリスク地域のヨルガ川のほとりにある教区の基金で建てられました。

それは一年の暖かい時期の礼拝を目的としており、周囲の村々から離れたスレドネポゴスキー教区の中心部に位置していました。

2003年、芸術家のイワン・グラズノフは、教会をコローメンスコエに移転し、放棄された寺院を破壊から救うことを提案しました。

教会の解体時に、重要な発見がなされました。バルブには奉献の日付を示す刻印が見つかりました。このような神殿の碑文は、現存する 3 つの木造教会でのみ知られています。2011年、教会は、コローメンスコエの今ある場所で組み立てられました。


(2)ブラーツク要塞の塔
ブラツク要塞は、現在ブラーツクの町がある場所の近く、アンガラ川のほとりで1630年代に建設されました。

この要塞はコサックによって建設され、バイカル地方へのロシア人入植者の拠点となりました。要塞はシベリアと極東の開発に大きな役割を果たしました。

ブラーツク要塞は正方形の平面図で、4つの壁の長さはそれぞれ64メートルでした。4つの四角形の塔が柵で結ばれていました。塔は2層建てで、コサックは下層に住み、上層は戦闘に使用されました。

1950年代後半、砦の残骸は建設中のブラッツォイ貯水池の洪水地帯に入り、新しい場所に移送されることになりました。

南西の塔は現在イルクーツク地域のアンガラ村博物館で見ることができ、北西の塔は1959年以来コローメンスコエにあります。

(3) スマ要塞のモホヴァヤ塔
ロシアのヨーロッパ地域に保存されている唯一の戦闘用木造塔です。元々、この要塞は1580年代にソロヴェツキー修道院のポモリア領内に建てられました。100年後、古い複合施設は老朽化し、ツァーリの命令により、新しい木造要塞の建設が始まりました。その任務はロシア北部の土地を守ることでした。

要塞は何度もスウェーデン軍の攻撃を撃退し、1613年には北にやって来た偽ディミトリー2世の軍隊の残党である「チェルカス」の包囲に立ち向かいました。

1931年、ピョートル・バラノフスキーの発案で、老朽化した衰退したモホヴァヤ塔がコローメンスコエに輸送されました。

研究の結果、何度も再建されたことが判明したため、専門家達は元の外観を復元するのに多くの時間を費やしました。

古い木材の切断技術に精通したアルハンゲリスクの専門家のおかげで、
2008年になってようやくこの塔を組み立てることができました。

(4) ニコロ・カレーリスキー修道院の聖門
現存するニコロ・カレーリスキー修道院の建物で唯一の木造建築物です。この修道院は白海沿岸の北ヴィヴィナの河口に建っており、年代記に初めて記載されているのは1419年に遡ります。

この塔は、1931年の白海オネガ科学遠征の後、1933年にコローメンスコエに輸送されました。
長い間、昇天教会の近くのアセンションガーデンにありましたが、2007年に現在の場所に移転しました。


最初に宮殿を見た時、タイムマシンに乗っておとぎの国に迷い込んだような気持ちになりました。

木造の宮殿ですが、しっかりと頑丈に作られているようです。

また、宮殿の独特な屋根の形が、一層、おとぎの国に連れて行ってくれます。

宮殿の中のさまざまな装飾。金色と赤色の色使い。派手ではあるけれど、下品な感じは全然しません。

宮殿は、ふんだんに贅を尽くして作り、いらっしゃるお客様に対して、国の力を見せたいというロシアのツァーリの心は、今も受け継がれているようです。

一方、木造の教会は、素朴ですが、温かみを感じます。
また、風が吹く、草原にそびえる木造の要塞等には、ロシアの力強さを感じます。

今回の散策は、コローメンスコエ公園を横断する長い道のりでした。
今回歩いてみて、コローメンスコエは、ロシアの色々な表情を感じることのできる処だと思いました。

今回も、前回と同様長文になってしまいました。

ここまで読んで下さりありがとうございます。

私なりの目線で捉えた動画です。ぜひ動画もお楽しみください。


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