いちろくタルト
空き巣、激安夜行バスの旅、受験失敗、音出し問題、ヒステリック更年期大家。怒涛の一年。
ピアノ購入、アルプスでスキー、婚約、入籍、卒業
引っ越し、トコジラミ、新しい学校、旦那と付き合い始める、ウィーンでのセミナー
2020年5月11日、約二ヶ月に渡ったconfinement(外出制限)が解除された。 ちなみにどの辞書をひいてもdéconfinementという単語はない。今も私がそれを打つたびにパソコンがスペル間違いと認識してご丁寧に赤線を引いてくれている。外出制限開始から二週間ほど経ったある日に義家族とテレビ電話をしていた際「Quand on est déconfiné...(外出制限解除されたら…)」と義母がいい「なにその単語!勝手に造ったの?(爆)」と笑っていたが今やみんな使って
怒涛の渡仏初日を終えてからも、なかなか大家からは解放されなかった。 まず二日目は住居保険の登録に連れて行かれた。大家宅で待ち合わせだったが着くなり「ちょっと疲れがたたったのね。蕁麻疹出ちゃったからこれから病院に行きます」と言われ(ハァー?ドタキャンか?)と思ったらまさかの病院に付き添わされた。渡仏二日目にして2日連続他人の病院に付き添ってるやつなんて絶対この世で私一人な自信がある。 病院は昨日の娘の診察よりは時間がかからなかったものの(なんで今日の待ち合わせの前に行ってお
結局スマホなど買うには「分割で月額いくら」という支払いをしなくてはいけなく、そのためには銀行口座ないと無理だわ。と言われなんの収穫もなくSFRだかorangeだかを後にした。後から知ったが普通にデータ通信の契約なしでも本体単品で変えるがアナログな大家は知らなかったらしい。残念だ。 「社会保険は明日の午後に予約取れてるからね!大体◯€ぐらいだから用意しといてくださいね!」といわれ結局予定していたことは今日何も出来ないことを知り絶望する。そしてこの後また大家宅に戻って地下倉庫か
さて、ようやく一通り生活の準備が整い受験に集中出来る。私の場合は私立の音源だけ送れば入学許可証が貰えてビザが取れる学校にとりあえず登録し、本命の第一志望の学校は10月が入試だった。 一人暮らしのアパートで練習する。日本では一軒家の狭い防音室でずっと練習してたのでリビングひと間にピアノがドカンと置かれた空間で練習するのが少し落ち着かない。隣人にも絶対聞かれてるだろうという自意識過剰がはたらいてなんとなく恥ずかしい。前の人より下手だと思われたらどうしよう、などと前の住人より上手
大家の家に着いた。私を座らせてパソコンで契約書を作成しているがこれも何故今日までに済ませられなかったのか謎だ。そしてこれを持って弁護士のところに行くという。私と大家の間で問題が起きた際公平な立場で仲裁に入ってもらう為だそうだ。その弁護士はというとフランス人で、果たして私にとってメリットがあるのかどうか謎だったが大家は「あら話してなかった?皆こうするのよ」というスタンスだったので従った。弁護士に50€払うようにも言われた。出会って早々、こいつはとんでもない詐欺師なのではという嫌
方向音痴(ほうこうおんち)は、方向・方角に関する感覚の劣る人のことをいう。音痴が変化してできた言葉。方向感覚だけでなく空間に対する認識の能力に対しても使うことがある。(wikipedia) つまり私のことである。どの程度かと言うと、一番よくある例で言うとレストラン等でトイレに入った後、自分の席に戻ろうとして平気で真逆の方向に行く。たまたま入った初めてのレストランならまだ許そう。しかし四歳から通っていた音楽教室でも授業後教室から出るときに毎週「はて?」と、信号もないのにドアの
車内に心地いいとは言えない歌声を響かせているうちにやっと私の住むアパルトマンに着いた。大家に11時に来いと言われていたがまだ9時前だったので家の通りにあるカフェに入った。大荷物の中、朝のカフェを愉しむおじさん達で賑わう中入って行くのは勇気がいったが雨の中外に立ち尽くしているわけにもいかない。ようやく座れて、一人になれてホッとした。 時間になりとうとう我が家へ向かう。11時に来るのかと思っていたら中から大家が出てきた。 この大家は日本人で、こちらに留学している友人の友人から
タクシーの運ちゃんはラオス出身の気さくな感じのおっちゃんで「どこから来たのか」、「どうしてフランスに来たのか」などよくある質問を投げかけてきた。これくらいであれば片言かもしれないが答えられた。朝の通勤ラッシュ時だったので窓ガラスを割られて取られないよう荷物は足元へ置いた。 私が音楽留学で来たと知った運転手は「歌は?歌は好き?僕は大好きでこんなことやってるんだよ!」とカラオケのアプリを起動し自分が今まで歌ってきた録音を聞かせてきた。多分ラオスのポップスで正直上手いのかなんなの
ある年の9月、いよいよ私のパリでの留学生活が始まった。 飛行機に持ち込める最大限の荷物を持ってきたのでLサイズのスーツケース、ボストンバッグ、中サイズの肩掛けバッグ、とシルエットだけ見れば限りなくカービィに近かっただろう。私の先生はやりたい曲をなんでもやらせてくれるだろうと信じていたので楽譜は受験曲と受験後すぐ始めたい曲以外は船便でゆっくり二ヶ月後くらいに届く予定だ。 一番安い飛行機を取ったのでバンコクでの乗り換えも含めトータル20時間くらいのフライトだった。ほとんど寝ず
そして更にオチはあり、貰ったリストはというと「配偶者ビザ更新用リスト」。いや誰が更新すんねん更新もなにもまだ持ってへんねん。悔しいことに呆然とさせられてしまっていた私達はその場では気づけず帰りのメトロで気づいたのだった… とにかくフランス在住の方なら個人差はあれど誰もがPréfectureはnulle(=バカ、アホ、無能←)だと感じていると思う。学生ビザにしても、二年目の更新の時は「戸籍は?」と聞かれ「持ってきてない。だってリストに書いてないから」とpréfectureの公
もうなんだったか忘れたが私達の番号はたしか「D5」とかたしかそんな感じだった。画面には「A3, A4, B2, C1, D2」という感じに並んでいる。以外に早く終わりそうだという期待も儚くD2で止まり、そこから続々とE1だのF1だのよそ者が割り込んで来た。夫は既に一冊読み終えてしまい退屈している。 結局五時間待たされた。本も読み終えスマホのバッテリーも残り寂しい。その間レセピセが貰えず窓口で泣き叫び、警察に取り押さえられている女性を目にし怯んだが私達はこの日のために周到に用
パン屋の面接に行った時、ビザの提示を求められた。その時既に期限2週間前でレセピセ(ビザの発行が認められてから滞在許可証のカードが貰えるまでの仮証明書)もなかった。当たり前だがビザのない者にオフィシャルに働く権利はない。 面接の3日後、以前から予定していた通り夫に有給を取ってもらい配偶者ビザ取得のためpréfecture(警察署)へ出向く。本当は9月に行きたかったのだが夫が休みを取れなかった。 さて、私達が住んでいるのはパリではなくパリ郊外である。市によって予約が取れたり、
早速以前から目をつけていた日本人経営のパン屋に応募する。私の条件としては水曜以外(水曜は学校がお休みなのでレッスン出来る可能性がある)の平日(週末は夫との時間を大事にしたい)だった。パン屋からの返事は「週末勤務可を探している」であった。ボツ。 次に応募したのも日本系パン屋。ここは面接までいった。しかし何故かお偉いさん4人も集められた面接で「どうして週末働けないのか」「週4日以上は無理なのか」と結構な圧をかけられやる気が削がれる。そして極めつけが「時給8ユーロ」の言葉だった。
最初の体験レッスンは初心者の4歳の男の子だった。その子個人のことになってしまうのであまり書けないが一言言わせて頂くと「大変だった」。 「4歳からどうぞ♪」なんてホームページに書いてしまったのは紛れもなく私だがとにかく楽しませて集中を保たせないといけない。正直音楽の知識なんてものはほとんど必要なく、ここで必要とされるのは幼稚園の先生的テクニックだ。そして少なくとも今の私にそのような技量はない。持ち合わせていない。 とりあえず30分の体験レッスンを終わらせ後日お返事を頂くこと
ある6月の終わり、約7年親しんで来た先生の最後のレッスンを終えると共に私の学生生活にも終止符が打たれた。小学生から数えるとするならば約20年学生をやっていたことになる。周りには30歳を過ぎても学生として日々学び続けている人もいるし、私もまた何らかのきっかけで学生に戻ることになるかもしれないがひとまずここで終わりとする。 さて、夏のバカンスはほとんど日本で過ごした。二年ぶりの日本である。留学当初宣言した「留学終えるまで(2年の予定だった)帰りません」は達成したわけだが羽田空港