4.堂道、次長!①
二年間、離れている間にはけんかもあった。
この時以外にもさみしくて八つ当たりしたこともあったし、辛くて泣いたこともあった。
すれ違いで、さすがにもう無理だと弱気になったこともなくはない。
しかし、今日新幹線に乗る糸はうきうきしていた。もうそんなことは全部、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
新幹線のチケットは久しぶりに自分で買った。
堂道に一応は歓迎されるようになってから、あらかじめ約束をして訪れる日は、ネットで指定席を予約しておいてくれるようになった。
糸の経済的な事情を汲んでくれたのだ。
四十も過ぎたバツイチの、あまり素行のよろしくない堂道と『いい子』の糸が一緒にいることは、同情の声が寄せられることが多い。堂道本人がそう分析しているし、夏実ですらまだ言っている。
実際、堂道の条件だけで言えばそうなのかもしれない。
しかし、糸は思っている。
糸は、若くて初婚かもしれないが、けしてできた人間ではない。
わがままも言うし、堂道を束縛もする。
若さも武器に使って、無理を言ったり、横暴なこともする。堂道の言う『無茶』もする。若いから何でも許されると思っている。
糸だって、十分『困った若いだけの女の子』なのだ。
それを、堂道が上手く掌で転がして、許して、甘やかしてくれているから、糸はみんなから同情されるような『いい子』でいられているのだ、と。
勝手知ったるとばかりに、新幹線の駅から私鉄で二駅、堂道の暮らすアパートへ向かう。
支社では去年、従来の水曜日に加えて金曜日もノー残業デーが導入された。
今日はその金曜日なので、おそらく帰りは早いはずなのだが、接待は関係なくあるので、来るときは連絡してくれと頼まれている。
それでも今日はアポなしで来た。サプライズにしたい。
糸は先々週にここに来たばかりなので、さすがに今日に来るとは思っていないはずだ。
驚く顔が見たかった。
このまちは政令指定都市だが、駅を一歩離れると驚くほどに静かでのどかで、見渡せる広い空には夕焼けが広がっている。
遠くに、間延びした鳴き声とともに山に帰っていくからす。
近くに、稲穂の上を飛び交うとんぼ。
時刻を確認する。
定時で退社し、駅前のショッピングモールでぶらぶらしてからスーパーでビールとアテを買って、糸の予想通りならそろそろ帰ってくる頃だろう。
「あ、クラッカーとか用意した方がよかったかな」
舞い上がっていて、何の準備もしていない。
ただ、早く会いたくて。
二年間、離れていても、やっぱり糸は堂道が好きで、どうしても好きで、他の人とどうこうなるなど考えられなかった。
しばらくして、下品な態度で階段を昇って来た堂道は、ドアの前に座る糸を見て目を丸くした。
もう、それだけで満足だ。
糸は緩む頬を隠せない。
*
部屋の鍵を開けながら、堂道はふと思い出したように動きを止める。
「あ、家なんもねえわ。今買ってきた唐揚げだけしかねえ」
「すみません、私も浮かれてて全然気が回らなかったです」
「なんか食いに行くか?」
「うーん、家で食べたい」
今日は思いきり濃密な時間を過ごしたい。
食べる間も惜しいほど。
一分一秒ももったいないと思う。
「んじゃ、買いに行くかー」
駅前のショッピングモールに戻る。
予想した通り、ついさっきまでそこにいたらしい。
連絡をくれれば、ついでに買って帰ったのにとぶつぶつ言われながら、堂道の持つカゴにぽいぽいお菓子を入れていると声をかけられた。
「あれ、堂道課長?」
「ああ、お疲れーっす」
「お疲れ様でーす」そう言って近づいてくる女性は、若くはないが、オバサンと一刀両断するにはためらってしまう微妙な見た目のひとだった。
女はこういうとき、なぜか本能でわかる。
この人が雷春さんだ。
そして、間違いない。ライバルだ、と。
はつらつとした嫌味のない顔立ちの女性で、若い頃はもっと美人だっただろう。肌に衰えは見えるが、今だって全く悪くない。
食料品の入ったカゴを、カートを押さずに手に下げているから、その頑張りが健気に見えて胸をつく。つい持ってあげたくなる。そんな気にさせる、朗らかだけど陰の人。
「……あら! やだ! もしかしてデート中でした?」
「あー、こいつは、えっと、彼女、的な?」
「なんですか、……的なって。彼女でしょ!? あ、照れてるんだ! 東京から? はじめまして。同じ会社の雷春小春と申します。堂道課長にはいつもお世話になっております」
雷春は、糸に向かって丁寧に頭を下げた。
「つっても、このヒトも同じ会社なんだけど」
「えっ、そうなんですか!?」
驚きのリアクションは、やっぱりオバサンっぽい。
「はじめまして、玉響です。本社営業部一課に所属してます」
「ええー! 知らなかったー! 課長、社内恋愛だったんですか。意外! 意外すぎますよ! 会社ではすごーく怖くて、社内で恋人作るとかありえないって感じなんですよー?」
知ってますとも。堂道課長には、部下に手を出さないっていうポリシーがあるんです。私は手を出されちゃいましたけど、とは言わなかった。
あまりに大人げない。
「よっぽど玉響さんがかわいかったんですね、きっと」
あ、と糸は思った。
『彼女は私をうらやんでいる』。
一発触発の雰囲気に気づいたのか定かではないが、堂道が話を変える。それがとても自然だから、堂道は侮れない。
「ああ、そういえば、さっき本屋で翔太見かけたわ」
「えー? あの子、なに道草食ってんだか。今日塾なのに。もう!」
怒った顔をしてからすぐに糸を向いて、
「堂道課長にはバスケのコーチして頂いたり、たまにバスケの後、体育館で子どもの勉強も見てもらったりしてるんですよぉ。すみませんねぇ」
「……いえ。バスケを教えさせてもらえて、すごく楽しいみたいです」
「なんだよその上から目線」
少年バスケの練習をしている隣のコートで、ママさんバスケもやっていて、雷春がそちらのメンバーだと言うのは知っているが、普段、雷春の名前はあまり話題に上らない。
職場の他のオバチャンの話はよく聞くから、意識的に堂道が避けているのかもしれない。糸がいつか泣いたから。
「では、お邪魔虫は失礼しまーす。こんなところで仲良く買い物なんてしてたらまた保護者に見つかって、うるさいですよー?」
「いや、まじそれな。ここ、世間狭すぎだから」
「課長、また来週。玉響さんもまた」
「はい、失礼します……」
いまどきの流行ではないけれど、十分にセンスがよくて気を配ったオフィスカジュアル。
マウントを取る、取られるが、関係性の基本にある女性同士で、雷春は無駄に気負わずいられたし、嫌な気分にさせられなかった。それは勝ったなのか、負けたなのか。
そもそも、よく知りもしない人と張り合っている時点で、糸は人として未熟であるに違いない。
同年代でバツイチの部下である雷春が、離れている間、気にならないはずはなかったが、堂道はその辺りのことで糸を全く不安にはさせなかった。
名目上は彼女ナシのフリーなのに、それだけは、堂道は完璧なまでに独り身を貫く姿勢を見せてくれた。だから、糸はヤキモチで真っ黒に焼け死なずに済んだのだ。
雷春が去った後、二人の買い物は、どこかしんとしてしまった。
「おい」
堂道が、どん、と身体をぶつけてくる。
「おいおい、まさか、ショックとかなんか受けてねえだろうな」
「……先に堂道課長にツバつけといてよかったなって、つくづく……」
「ばぁか」
「彼女って紹介してくれてありがとうございます。私たち、つきあってないのに……」
なんとなく泣きそうで、顔を見られたくなくて、糸は無駄に深々と慇懃に礼をする。
「なに、しおらしいこと言って。糸の中では俺らずっと付き合ってんだろ? 自信もって彼女でいろよ」
「堂道課長もわかってるんでしょ。……雷春さんに憎からず思われてること」
「なんだよ、憎からずって」堂道は笑い、「ねえよ、ないない」
可能性を振り払うように、足を投げて、先に売り場を進んでいく。
どこかはぐらかすような堂道の後ろ姿を、糸はじっと見た。
糸の足が止まっていることに気づいたのか、振り返って、
「あったとしても応えられねえし。俺は糸だし」
大人なのだ、と思った。二人は大人同士なのだ。
踏み込まない方がよさそうなことに踏み込まない大人。
本当は踏み込みたいのに踏み込む勇気がないのが大人。
糸は、まだまだ大人ではなかったから、無遠慮に考えなしに堂道を手に入れることができたのだろうか。
「課長っ、好きっ!」
「ちょ、おま、重っ……」
子どもでよかったと思いながら、糸はアルコールの缶を物色している堂道の腕に抱きついた。
Next 4.堂道、次長!②へ続く
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