5.堂道、不合格!②
「……堂道さん、ゆっくりして行ってくれ。わたしは少し出かけてくる」
父は答えを出さないまま、席を立った。
「お父さん!」
堂道も立ち、一礼をする。
糸は立たなかった。
父が行くと、部屋に残された母が「堂道さん、楽にしてね」と自分も大げさに肩を上下させてみせた。
そして、まるで普段の態度になって、自分でいれた茶を飲む。
「ああ、噂には聞いてたけど、この状況さすがに緊張するわねぇ」
「お母さん! お父さんに話しておいてくれなかったの!?」
ふくれっ面の糸は、待っていたとばかりに母に詰め寄った。
「したわよー」
「じゃあなんで!?」
堂道が糸の腕に触れた。
「糸」と小さく呼び、「いいから」となだめるように首を振る。
「課長……。誤算でした……まさか、反対されるなんて、私、思ってなくて……すみません」
「謝る必要なんてない。もとから昨日今日で許してもらえる話だと思って来てない」
「そんな……」
糸は泣きたかった。
まさかこんなところで、こんな予想外のところでつまずくなんて。
せっかくここまで漕ぎつけたのに。必死で堂道を手に入れたのに。まさか糸側の理由でふいにしてしまうなんて。
「堂道さん、ごめんなさいねぇ。別に反対してるわけじゃないのよ。お父さん、ちょっと威張りたいだけなの。ホラ、公務員だから。業者さんとか民間の人にね、やたらもったいつけるのよ、公務員だから」
「堂道次長は業者じゃないし! 今は仕事なんて関係ないし!」
「でもね、お母さんだって心配よ。今どき離婚なんて珍しいことじゃないけど、そういう世間体じゃなくてね、糸がまた離婚されたらって、そこはやっぱり心配になるのよ。堂道さんに軽んじられるかもしれないなら応援できない」
「堂道次長は違う。わがままで離婚したわけじゃない!」
「わかってるわよ。わかってるけどね」
「ご心配は尤もです。前科者ですから」
「そんな風に言うのやめてください!」
涙目で堂道の腕を強く掴む。
糸はいつ何時も、けして堂道を傷つけるものであってはならないのだ。
それは、糸の家族にも強いたいし、背負ってもらわなければならない。
「そう思われて当然だ。それくらい、糸と結婚するには俺は分が悪い」
「まあまあ、心配しなくても大丈夫だから。何も堂道さんが憎くて言ってるわけじゃないんだし」
「横暴でしかない……」
糸はとうとう泣き出した。
「なんで泣くんだ」と堂道に頭を撫でられ、慰めてもらうはめになった。
泣きたい気分なのは堂道のはずなのに、悔しくて、我慢できなかった。
「ゆるしてもらえなくても、結婚するから! 駆け落ちするから!」
「ほら、そういうところよ。あんたはまだ若輩なの。一時の熱だけで結婚しようとしてるんじゃないか、冷静なのかってお父さんは言ってるんだと思うよ? すみませんね、こんな頑なな子ではなかったんですけれどねぇ」
「こちらこそ、私が至らないばかりに申し訳ありません」
「堂道か……次長は悪くない!」
「それだけあなたのことが好きなんですねぇ」
「こうして、普通ならいらぬ苦労をさせてしまうことも多くあって、それも重ねて申し訳ないと思います」
「苦労なんかじゃありません……」
「大切にしてもらってるね。糸、よかったね」
今は糸が優しくされている場合ではないのに。
ままならない状況に、地団駄を踏みたくなる。
*
指定席の番号を見つけて腰を下ろすと、堂道はネクタイを緩めた。
「さすがに疲れたな」
座席に深く座り込んで、細く息を吐く。
それはきっと、ため息が形を変えたものに違いなかった。
「……お疲れ様でした」
「糸こそ」
「……飲みます?」
保冷バッグから缶ビールを取り出す。
十分冷えている。
さっき新幹線口で、他の土産と共に母に持たされたのだ。
堂道が引きつった顔で笑う。
「ハハ、まだ飲ませる気か、お前のかーちゃんは」
「家でもかなり飲んでましたもんね。別に、今飲む必要はありませんから」
「いや、是非頂こう。接待で鍛えられたこの肝臓に不可能はない」
「大丈夫ですか。別に無理はしなくても……」
堂道はためらいもなくいい音をさせて缶を開ける。
ビールは糸の分も、なんならお代わりまで用意されていた。重たいはずだ。
しかし糸は、堂道がごくと口にするのをじっと見るだけで、自分は飲む気になれなかった。プルトップを引く気力も起こらない。
「……無駄足を踏ませてしまって、すみませんでした」
「おいおい、今日のを無駄足と思ってんのか」
「だって……」
あの後すぐに兄がやってきた。そして、母と兄、糸と堂道の四人で出前の寿司を食べた。
なにもめでたいことなどないのに、盛り合わせは特上だった。
父は、どこをほっつき歩いていたのかしばらくして帰ってきて食事に合流したが、結婚については触れなかった。
酒も入り、会話も弾み、場は和やかで、険悪な雰囲気でなかったのがせめてもの救いだが、逆に糸はそれがなんだか腹立たしい。
まるで、何もなかったかのようにされているようで。
その実、許すのかどうかは保留のままだ。
「お前のことは、そんな簡単に手に入るもんじゃないと思って、それなりの時間は覚悟してるって。門前払いも想定にはあったくらいだぞ」
「普段はあんな親バカじゃないんです! ……糸はいつも一番が好きだったとか言ってたけど、そんなの小学生のときの運動会の話ですよ! そもそも家では兄がなんだって一番で私は二番目、いつもあまり物だったのに」
「嫁にやる父親ってそんなもんじゃねえの? 糸のお父さんが言ってることは正しいし、理解もできるし」
堂道はビールを飲みながら、糸の手を握った。
「だいたい『ごめん』は俺の方。糸チャンが選んだのが親不孝な相手でさ」
糸は握りかえす手に力を込める。
「謝らないで下さい……そんな風に言うの、やめてください……」
「俺も、真っ新だったらナー」
洗濯洗剤のCMのメロディに乗せて。
糸はこれ以上、堂道を傷つけたくないのに。
「そりゃ、私が一人目の相手だったら嬉しかったけど、今だから出会えたのかもしれないし、そもそも次長のスペックで、そのトシまで売れ残ってたら、それはそれで何かがヤバい人なのかなって思うし。私としては「再入荷」で「購入可」になってくれただけで儲けものっていうか……そもそも、人生にタラレバはないんでしょ!? 現状こそ、目を逸らすことのできない現実であり、結果です! 今の次長、今の私」
鼻息も荒く、言い切った。
「だから! 私も、堂道次長に出会ってしまったのが今だった、としか、申し上げられません」
「そうかそうか。ハイハイ、近う寄れ」
堂道は、糸の頭を寄せて、自分の肩の上に傾けた。
そこに熱い体温があった。情けないけれど安心できる。嬉しいはずなのに泣きそうだった。
「……つーか! お前、お父さんとの話の中でも、次長、次長、言い過ぎだっ! ああ、昇進したのが部長じゃなくてよかったわぁ……。お父様、部長サンなんだろ……」
「私も次長って実は呼びにくいんですよ……」
「いつまでも役職呼びもなぁ。なんて呼んでもらおうかねぇ」
窓側に座る糸には、明るい車内を映す窓が鏡になる。
こっそりと、そこに映された自分たちを見た。
やっぱり、大好きだ。自慢の恋人だ。最高の人だ。
「ま、こればっかりは時間の経過と、その時間に俺が糸のためにできることやって、それをオトウサマに見てもらうしかない。つっても、俺にできることなぁ。井戸でも掘るかぁ?」
堂道の言葉に糸は驚いてから、吹きだした。
「なんで井戸?」
「お父さん、水道部なんだろ?」
「それ、ウケ狙いですか。オヤジギャクですか」
「うるせーよ。まあまあ真剣だよ」
「私のためではないでしょ、井戸は。青年海外協力隊ですか。別に父も喜びませんよ。でも、そうですねぇ、『堂道伝説』作っちゃいます? また漁船乗りますか?」
「なんだよ、堂道伝説って」
「昔、営業部の風雲児堂道に不可能はないと言わしめたって羽切さんが」
「俺にも不可能あるわ! 気合だけでどうにかなるモンじゃねえってわかったんだよ、俺も!」
噛みつくように吠えたかと思うと、次の瞬間、百八十度その表情が緩んだ。
「……とにかく、時間はかかっても、糸への気持ちがわかってもらえるよう頑張るわ」
「すみません……」
「謝んなってば。さぁて、どうやって愛してやろうか」
堂道はにやりと笑いを濃くするが、糸はまだ笑えない。
「しかしまあ、それ以外の攻略はどうにかなりそうか。お母さんの感触は良かったよな?」
「兄にはめっちゃ慕われてましたね……。ほんっと、年下に好かれますよねぇ」
「あー、実はさ。俺が一番気になってたのは兄ちゃんだったから、それはマジほっとしてる」
ぽりぽりと鼻の頭を掻く堂道に、
「え、そうだったんですか?」
「そりゃ、兄ちゃんの立場だったらそうじゃね? 例えば、自分で考えた時、姉ちゃんが俺より年下の男連れてきたら引くし、お義兄サンとか呼べねえだろうが」
「だったら想定外でしたね、兄の反応は……」
兄は堂道を見るなり、興奮気味だった。
昔から糸に威張り散らしていた兄なのに「俺、小さい頃からずっと兄ちゃんが欲しかったんだよ」と三十男がキモチワルイ理想を語り出し、ついには「兄貴」とまで呼び出す始末で、本日正に堂道と盃を交わしていた。
見送りも、飲酒して運転の役に立たないのについて来ていたし、結婚問題の味方になると言えばそうかもしれないが。
「例えば、お父さんは官公庁マニュアルで基本対応ができそうだし」
「なんですか、それは」
「お役人相手に営業するときのツボ。その一、お役所は紙の書類が好き」
「あ」
糸は思い出したように、
「あの釣書! 私も欲しいです! あんなのお宝ですよ」
「なんでだよ。全部知ってることだろ」
「知ってることだけど、好きな人の公式プロフィールなんて欲しいに決まってます! しかも手書き! お母さんにコピーもらおう」
「そうそう、それ。それでこそ、いつものお前だ」
堂道はバカにしたように鼻で笑った。
しかし、目は優しかった。
「認めてもらえるまで、がんばろうな」
Next 堂道、ファミリー!①に続く
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