23.堂道課長は……
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部屋に着いて、鍵を開け、鞄を置いて、腕時計を外し、ネクタイを緩める。
堂道がそれらをする間、糸は何も言えず所在なさげに立っていた。
ヒールの細いかかとが、ふかふかの絨毯に埋まっている。
上着を脱いで、ワイシャツ姿になった堂道は、ミニバーに置かれていたミネラルウォーターのボトルをひねると、喉を鳴らして飲んだ。
「そう言えば、俺ら、酒の一滴も飲んでねぇじゃん」と自分を笑う。
「さすが。広いな」
普通のダブルやツインより十分広い部屋は一面の横に長い窓があって、夜の今、そこは映画のスクリーンのように部屋のすべてを映している。
堂道が奥にあるベッドに腰かけるのを、糸はガラスの中に映る方の姿を目で追った。
「おいで」
無言でそこへ近づくと身体の前に立った。
座っている堂道を見下ろす形になる。
手を取られ、しばらく見つめ合った。
「ここまで来たからには、付き合うってことでいいか」
「それは私が聞きたいです! ……課長はいいんですか」
「あのなぁ、若くてかわいい子に、本気か嘘かわかんねえちょっかいかけられて、動揺しないオッサンなんていねぇよ」
「……動揺、して、くれてたんですか」
「必死で遠ざけてんのに、どんどんかわいくなりやがって」
嬉しさのあまり、泣きたくなる。
「糸」
握った手を引かれ、そのまま押し倒された。
キスをされて、離れる間もなく深いキスをされて、一度離すと、からみあっていたことを知らしめるかのように開いた口に舌がのぞいて、それにまんまと煽られてキスは情熱的になっていって、糸がたまらず堂道の首に手を回すと、かわりに堂道の手が糸の身体をさまよい始める。
「シャワーしたいか?」
組み敷いた身体を見下ろせる位置にまで起きて、ベッドに散らばる糸の髪を梳きながら言った。
「……はい」
「じゃあ、先、行ってこい」
手を引っ張って身体を起こされる。
糸はふらふらと、定番の間取りではない部屋にあてずっぽうにバスルームを探した。
あまり回らない頭で、とにかく汗を流す。
下着もメイクも髪も服も明日の仕事も、何もかもに準備がなくてそれどころではないが、そんなことより早く堂道のところに戻りたい。
糸がバスローブを着て部屋に戻ると、堂道は「すぐ出る」と言い残して、入れ替わりいなくなった。
大きな窓から見下ろす景色は今はただ暗いだけで、眼下には庭園が広がっているらしい。
向こうに見えるビル群は、ただの綺麗な夜景でしかなく、糸の気を紛らわせてくれるような興味は持てない。
部屋の充実した設備やアメニティを楽しむような能天気さも鳴りを潜め、飲んだり食べたりはもちろん、テレビやスマホさえ見る気にもなれなかった。
何をしても、気持ちが上滑りしていくだけだ。
結局糸は、ベッドのさっきと同じ位置にじっと腰かけるだけにして、堂道が戻るのを待った。
バスローブを脱いで、ベッドに入っておくようなことはあえてしなかった。
すべて、堂道の指示に従いたかったからだ。
始まりも、始め方も、服を脱ぐのも、目を閉じるのも。
どのくらいか、やがて水音が止んだ。
しんとなった部屋に、厚手のホテルタオルにくるまれた堂道の動きが、くぐもった音になって聞こえてくる。
とうとうだ。
もうすぐ堂道があの廊下の陰から出てくる。糸を抱くために。
広い部屋の向こうから、堂道が糸の座るキングサイズのベッドへ向かってくる。
それを目で迎えながら、糸は眩暈がした。
スタイルだけはいいとアンチ堂道派でさえ口をそろえる体躯に、ゆるくバスローブを着ている。
頭を洗ったらしく、いつもの固めた髪が今は下りていた。
タオルで乱暴に拭きながら、片方で水を飲んでいる。
糸以外にこの姿を知る女性がいるなら、それがたとえ過去の不可侵領域であろうと嫉妬せずにはいられない。
ちょこんと座る糸を見て、
「そこでそうやってずっと待ってたのか」
とからかうように笑った。
脇のナイトテーブルにボトルを置いて、糸の隣に腰掛けた。
しかし、それが男女の間隔ではなかった。
公園のベンチで腰かける上司と部下の距離だ。赤の他人よりは近いそれさえ、今はひどく遠くて、再び今の状況の真偽を疑いたくなるくらいに不安に駆られる。
この期に及んで、さっきのキスが嘘かと思ってしまうくらいに。
「緊張してんのか」
キスも、抱き寄せることも、手を握ることもされないまま、そう聞かれ、糸はとりあえず頷いた。
堂道は、ベッドを前にしても一切甘くはならず、いたって普通どおりだった。
当然だが、この恋は成就したとしても、つまるところは糸の片思いの延長、独り相撲が続くようなものだ。
現状を再確認していると、
「俺もしてる」
そう言って、深く沈むベッドに後ろ手をついて、天井を仰いだ。
「……緊張してるんですか? 課長が?」
「そりゃ、するだろ」
「あのっ!」
糸は隣の堂道に向き直った。
「なんだ?」
「私……、課長の事、好きは好きですがそれはそれで、正直オジサンなことは事実で実際オジサンだとも思ってたし、イケオジとか年上とかそういうイケてるカテゴリではないただのオジサンってちょっとバカにしてたところもあった……かもしれませんが!」
「ああ? 今このシチュエーションで、ケンカ売るとはいい根性してんな」
「違います! 違うんです。……すみません。撤回します。勘違いというか誤解してたというか、ほんとにごめんない。認識を改めます。もう、全然そんなこと思えません。そう思ってる人がいたら全力で反論します。堂道課長は全然オジサンじゃなくて……もう、それはすごく、素敵なんだって。……かっこよすぎて、どうにかなりそうです……私……」
堂道は片眉を上げて、顔だけ見れば怒っていたが、いつまでたっても怒り出すことはなく、実際は困惑と呆気に取られていた。
「……つかさぁ、おっさんおっさん、言い過ぎだろ……お前、俺の事好きなんだよな?」
「好きです! だから! 私が言いたいのは! ……堂道課長はこんなにかっこいいのに、今までごめんなさいっていう事で……、課長、ほんとに好きです。好きすぎてもう、私、すごく、すごく……」
「そういうことは、終わった後に言ってくれ」
言い終わる前に、糸はとうとう抱き寄せられた。
「自信、ねえんだから」
つい一分前まであった、ただの上司と部下の距離は噓のようになくなって、すぐに男女の絡みになった。
キスの角度を何度も変えながら、手が肌を這う。
紐が解かれ、上になり、下になり、声にならない声が出る。
身体を起こして抱き合っては、バスローブが肩から落ちて、そのまま後ろに倒れる。
大きなベッドの中央で抱き合うころには、互いにバスローブは、はだけて、はがれて、身体を覆うものはもう何もなかった。
「明かりどうする? このままやるか?」
確かに部屋は煌々と明るいままだった。照明もインテリアも豪華さを優先する設計で、ムードを演出する気はないらしい。
「暗く、して、ください……。でも暗すぎないで、課長の顔は、見えるくらいの……」
糸を見下ろし堂道は、わずかに口許を緩めた。
「そうだな。ただのオッサンをイケオジと錯覚するくらいには暗くしないとな」
中断して、長い手を伸ばして調光を加減した。
糸がすでに溶けかけた視線でその手を追うと、さっき持っていた水と、そのとき一緒にそこに投げ置かれた箱があった。
避妊具の、もはや隠す気もないざっくばらんな準備の仕方に、なぜか愛しさがこみあげてくる。
同様に、堂道は、一言でいえばとても器用だった。
余計なものをそぎ落とした感じのシンプルな営みで、普段の人間性から想像するような過剰で偏った嗜好や際どさ、激しさを求められるようなことはなかった。
驚くほど丁寧で、しかし、それを優しさと言うには少し違う気がした。
もっとも、言葉はぶっきらぼうに変わりはなかったが、甘さもムードも一切ない飾り気のない実直な言葉が、逆に疑いようのないそのままの本心のようで、むしろ信じられた。
堂道の手の、指の、唇の動きのすべてに、ちゃんと糸は愛されていると実感できる、そんな行為だった。
*
目が慣れてきたのか、夜が明けてきたのか。
ベッドサイドの灯りがなくても、広い部屋の向こうまでぼんやり見渡せる。
「あー……、煙草吸う以外の時間の過ごし方がわかんねぇ」
その言葉は、いつもの堂道の声とは違う音に聞こえた。
糸が堂道の胸に顔を寄せているからだ。
堂道の声は空気を介さず、ぴたりと密着した肌と肌を通じて、それは周波が骨に響くような特別の伝わり方のような気がした。
「煙草吸えばいいじゃないですか……ああ、願掛けでしたっけ……何の願掛けか結局きいてない……」
気怠い身体に鞭を打って、糸は身体を少し起こした。
「願掛けっつーかー……」
「あ、サラサラ……触ってみたかったんです、課長のかみ……」
すぐ近くにあった少し長めの前髪を梳かすように触れてみたが、堂道もおっくうなのか糸にされるがままになっている。
それをいいことに梳く手だけはそのままにして、また堂道の胸に頬をくっつけて目を閉じた。
「願掛けっつーか、なんですか?」
「俺のモットー?」
「モットー……って……どんな、ですか」
ふっと息を吐く気配がして、
「眠いか」
かすかな笑いを帯びた声だ。
糸の、おざなりな前髪を梳く片手は、堂道の手によって動きを止められた。
姿勢が少しずらされて、堂道が糸の顔を見ようとしたのかもしれないが、実際、見られたのかはわからなかった。さっきから、どうにも目が開かないからだ。
まさか性欲よりも勝るのが睡眠欲だなどとは思いもしなかった。
「まあ、そりゃそうだな。昨日は慣れねー運転したもんなぁ」
頭を撫でられる。
「どうどうかちょう……すきです……」
目はもう開かなかったが体はまだ動いたから、少しよじ登って首筋に唇を押し付けると、代わりに糸は何度も額にキスをされる。
「朝、一回帰んのか」
「かちょうは、どうするんですか……」
「俺は会社に替えのシャツあるし、そのままだな」
堂道はさらりと乾いた唇で、糸の額や眉、髪の生え際を何度も往復する。
なぞられるのが撫でられているようで、その心地よさが余計に眠気を誘った。
「早いな、もう朝か……。空が明るくなってきたわ。おい、この部屋、景色すげーきれいだぞ」
身体を抱かれている手が、糸を起こすように叩かれたが反応できない。
「……糸?」
「……は、い」
「抵抗すんのやめてもう寝ろ」
「……いやです。もったいない……寝たくない、です」
「もったいなくねーよ。別に次がないわけじゃねえんだから」
「寝ません。だって……もったいない……」
「つかもう半分寝てるじゃん」
堂道は少し笑って、糸を抱く手に力を込めた。
「なぁ、糸サン」
「なんですか……」
「付き合ってること、会社には当分黙っとくか」
「……え、そうなんですか」
「色々聞かれんのもめんどくせーし。付き合ってるって言っちまったら、会社でイチャイチャもできねーし」
「え、いちゃいちゃ、して、いいんですか、会社で……」
「イチャつきたい?」
「そりゃ、いちゃつきたいです。……また、しりょうしつ、一緒にいきたい……」
「なんだァ、エロいことしたいのか? いいのか、あそこで押し倒しても」
「このまえは、なにもなくて……ちょっとざんねん、でしたから……」
マジか、と堂道が笑ったので一瞬目が覚める。しかしまたすぐに強い眠気に襲われる。
「いやいや、あん時はさすがになかっただろ。もしもあそこで俺が押し倒してたら、それ、セクハラ通り越して強姦だから」
少し肌寒く感じていた肩に、肌触りのいい掛布団がかけられた。
堂道の指が糸の頬をなぞる。
しかし、糸はもう目を開けられなかった。
だんだんと頭の働きも鈍くなってくる。
「……こりゃ、しっぺ返しが怖ぇなぁ」
そう言った堂道の言葉はもう夢か現かわからなかった。
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