31.堂道課長はヒーローにはなれない
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26話 27話 28話 29話 30話 31話 エピローグ(完)
風向きと言うのは妙なもので、風が前から吹いてくるか、背中から吹かれるか、たったそれだけの違いでそのときの勢いを良い方にも悪い方にも加速させる。
そして、堂道には今、間違いなく追い風が吹いていた。
「おい、尾藤! これなんだよ!? おかしいだろうが!」
朝のまだ早い時間に、堂道の声が響き渡る。
「えっ!? ど、どれでしょうか!?」
「この数字だよ!」
尾藤が慌てて課長席に走り、差し出された書類に目を走らせる。
「あ、俺、いや、あの……部長がこの金額でやってくれって……」
「部長が勝手にこの数字にしたのか」
「は、はい……これでいいからと」
「クソっ」
書類の束がデスクに投げられる。
「昔から部長と懇意な会社だ。この案件、言ったといたよな、気をつけろって。……どちらにしてもこのままだと大損害だ。赤字の補填をできる部門がない」
「あ……、でもそれは部長が……」
「部長は取引先にいい顔するだけで、マイナス出た分の責任まで取ってくれねぇよ。これ、額によっては始末書じゃすまねえぞ」
尾藤は青ざめた顔で「えっ……そんな……!」とうろたえる。
「どうにか相手と交渉して、行けるとこまで金額取り戻す。けどその前に部長ンとこだ。行ってくる」
「あ、あ……、俺も行きます……!」
「俺だけでいい。お前の責任は俺の責任だ」
「か、課長の評価にも響くって、こ、ことですか……!?」
「今は俺の話じゃねえよ! 自分のこと心配してろ!」
大股で出ていく堂道を、尾藤が途中まで追いかけて、やがて足を止めた。
フロア全体がしんとなる。
「尾藤」
羽切が声をかける。
「堂道の評価も当然下がる」
「ですよね……」
「全部お前が勝手にやったことにして逃げることだってできるけど、おたくの課長はむざむざと矢面に立ちに行ったみたいだな。さ、堂道が部長のところから帰ってくるまでに、関連の資料集めとけ」
項垂れる尾藤の肩を叩いた。
「部長ってさ、ホント口ばっかりで絶対責任取らないよね」
「堂道課長に責任取らせりゃいいと思ってんだろうな」
「堂道課長、潔いよね」
「この前も、部長が放置して炎上しかけたやつ、鎮火したの堂道さんだろ」
「堂道課長って上にもガツンと言える人だよね。怖いもの知らずとも言うけど」
社員たちがこそこそ言い合っているのが聞こえてくる。
糸は心配していた。
部長に怒られることをではない。
堂道が傷つくことをだ。
堂道は強がってみせ、なんともないふりをするけれど、実際は孤独で、たくさん傷を負っている。
せめて、下の者たちからの信頼を得られれば、そんな苦労も報われるのに、と思わずにはいられない。
尾藤には羽切の言葉をちゃんと聞いてほしい。
もちろんすぐ怒鳴るのは頂けないが、ちゃんと部下のために身体を張っていることをわかってほしい。
上司としての保身や体裁、義務からではなく、同じチームの仲間として助けられ、守られているのだと。
部長席から帰ってきた堂道の眉間にはこれ以上ないしわが寄っていた。
それから終日、尾藤と打ち合わせ室に籠って資料を突き合わせていたが、終業間近、席に戻ってきた堂道に羽切が声をかける。
「とにかく今日は飲みに行かね? 今日、明日で取り戻せるもんじゃないだろ?」
「あー、っと、今日は……」
「羽切課長! 俺も行っていいっすか?」
聞きつけた当馬が話に飛びついてきた。
「ああ、うん? いいけど。堂道、いいよな?」
「つか、俺は」
「んじゃ、俺も連れて行ってください」「俺も行きたいです!」と二課からも手が挙がる。
「珍しいこともあるもんだな。上司と飲んだって面白くないだろうに」
「いえ、是非!」
「ああ、そうか。給料日前でお前ら金欠かー?」
のんきな羽切の視線の先に、居心地の悪そうな堂道がいた。
「今日は先約がある、から無理だ」
当馬がこそっと肩を寄せて来た。
「あ、もしかしてデート? 玉響さん?」
「へっ、あー、えと……」
「玉響さんも一緒に行けばよくない?」
「えっと……」
返事に窮した糸が堂道の方を振り返ったら、目は合ったものの、可とも否ともわからないままにまた目を逸らされた。
仕事帰りに会うつもりではいた。特に、どこへ行こうと約束をしていたわけではなかったけれど。
結局、なしくずしに、小夜を含む一課と二課の営業数人で飲みに行くことになった。
「堂道課長、今度バスケサークルの練習来てくださいよ」
「堂道課長、今日はありがとうございました。すみませんでした」
「堂道課長、このぽん酒、うまいっすよ」
信じられないことに、堂道が輪の中心にいる。
糸の前の席に座る羽切が「玉響さん」とにこにこしていた。
「『みんなの堂道』になっちゃってさみしい?」
「そんなことは……」
「すごい目で見てたけど?」
「……少しだけ、です。ちやほやされてる堂道課長を見られる方が、嬉しいです」
「ちやほやというか、みんな舎弟希望者みたいになってるよなぁ」
「当馬くんなんて、さっきおしぼり自ら差し出してましたよー。片膝着く勢いで」
小夜が肩をすくめる。
「ほら、堂道って漢の中の漢だから。性格に誤解がなくなれば、普通に部下からモテるタイプのはずなんだよね。体育系だし」
糸は口をとがらせて言った。
「……そんな一朝一夕で、嫌われ者がいきなり人気者にはなれませんよ」
「糸、心せまー」
嬉しくないわけではないが、正直、面白いわけでもない。
拗ねているのは、近くにも座れず、話もできないと言うちっぽけな不満からだ。
みんなからの認識を改めたかったのは、何より糸なのに。
みんなが好意的になったら、糸の特別性がなくなるような気がする。
まだ、女子社員からモテているわけではないだけ安心なのかもしれないと、糸は必死に自分を安心させた。
「糸、帰るか」
手洗いに行っていたのか席を離れていた堂道が、いつの間にか横に立って糸を見下ろしていた。
「え」
すでに噂になっているのは知っているし、なんとなく『そういう』気を遣われていたのも感じているが、堂道との仲をみんな表立っては聞いてこない。
堂道もいまだ付き合いをおおっぴらにしないスタンスを貫いている。
それなのに、二人きりではないところでいきなり名前で呼ぶなど、一体どうしたのだろう。
驚いていると、羽切がからかうように言った。
「堂道、酔ってるなー。めずらしー」
「え、そうなんですか!? これ?」
「酔ってねえ」
「酔ってるところ、初めて見ます!」
「酔ってねえし」
「酔ってるよ。玉響さん、あとはよろしく。ハイ、お疲れ」
堂道の席の鞄を取って、差し出す。
「……金、とりあえずの分、置いてく」
酔っていないようで酔っているらしい堂道は、確かにどことなく怪しい手つきで財布から紙幣を数枚抜いて羽切に渡すと、糸の腕をつかんだ。
「あ、私の分……」
慌てて鞄を探る糸を制して、
「いい。どうせ俺と羽切の割り勘だ」
「堂道課長、お疲れ様です」
「玉響さん、気を付けてー」
「糸、お疲れー」
下手に冷やかしでもして逆鱗に触れたらと恐れているのか、なんでもない顔であっさりと見送られ、糸と堂道は先に店を出た。
*
堂道はしっかり、いつものガニ股で歩いていたが、支えると言う名目で糸はくっつき、腕を組んだ。
嫌がらないところを見ると、やはり酔っているらしい。
「すっかり公認になっちゃいましたけど……よかったんですか」
「ダメなの?」
「ダメって言ったの課長じゃないですか! 私はいい! むしろ大歓迎! ちょっと恥ずかしいけど……」
街に人は少ない。
どこに向かっているのだろうと思ったのも一瞬で、おそらく糸の部屋だ。
わざわざ確認しなくてもいいくらいに、すでに二人の日常になっている。
「……酔ってます?」
「んー。少しだけな」
「いいお酒でしたね、今日」
糸はとても満たされていた。
ふわふわと、酒のせいだけではなく心が浮かれている。
「……俺、別になんも変わってねーのになぁ」
「そんなもんですよね、人からの評価なんて」
右からの流れには同じく右に流れ、左からの風が吹けば左を向く。
裏ばかり見ていたころを忘れ、表ばかりが見える。
人間の主観の容易さを感じる。基本は根無し草で風次第、気分次第。
それはおそらく、他の事においては糸だって同じに違いない。否、昔はみんなと同じだった。
「糸のおかげだな」
「私、なにもしてませんよ」
「いいや、糸が引き上げてくれた。一人だった時はさ、生きにくかろうがやりたいようにやるって思ってたけど」
堂道は言いながら、都会の明るく赤い空を見上げた。
糸もつられて見上げるが星など当然見えない。空が雲に覆われているのかさえわからない、そんな夜空だ。
「堂道課長の人生において、私が何かのきっかけになれたんなら、それはすごく嬉しい事です」
堂道が腕をほどく。
糸の手を取り、組みなおす。
何かの意思を持ってして力強く握られたが、堂道はまだ空を見上げている。
そんな堂道の横顔を、糸は見る。
「欲出しても、いいのかねぇ」
「何の欲ですか?」
答えより先に、隣の糸を振り向いた堂道は、驚くほどやさしい顔だった。
「お前と、一生一緒にいたいって」
本当の『堂道課長』は、ヒール役に徹する部下思いの優しい人。
口は悪いけれど、実はいい人。
誤解されがちな損な人。
案外面倒見がよくて、社外では慕われる、孤独な人。
それを、糸が見つけて、舞台に上げた。
嫌われ者の『堂道課長』はもういない。
「そんな、ためらうことなく、望んでください……。そして、一生、側にいさせて下さい」
けれど、ヒールにご都合主義の美談が許されるほど現実は甘くなかった。
役柄として演じていた役割であったとしても、必要悪であっても、悪役は悪役。
糸はそれを思い知らされることになる。
*
同じ部署にいるからと言って、さすがに糸も四六時中、堂道を監視しているわけではない。それでも、最低でも一日の予定は共有スケジュールで毎朝必ず確認する。
堂道からはストーカー扱いされ、仕事に集中しろと言われている。
「上司のスケジュール管理も部下の大事な仕事の内でしょ」と言えば、「羽切のスケジュールを管理してやれ」と。
もちろん、その通りではあるけれども。
「ねぇ、堂道課長は?」
糸はコピーをしに行くついでを作って、夏実の席に寄った。
堂道の午後の予定はずっと『在席』になっているのに席にいない。
「会議やミーティングの予定もないはずだよね? 一時間くらい前に離席したきり戻ってない」
「糸ってば専属秘書? 堂道課長ならさっき部長に呼ばれて行かれましたけど?」
「部長呼び出し? なんかあったの?」
「えー? 特にトラブってはないはずだけど……。確かに、遅いかも。堂道が戻ってきたら見てほしい書類があるのに」
そのうちに、二課がざわつきはじめた。
夏実をはじめ、一人二人と只ならぬ雰囲気に気づきだして、騒然となっている。
なにか、嫌な予感がする。
全く仕事が手につかないでいると、夏実が顎をしゃくって合図をしてきたので席を立つ。
小夜も少し遅れてついて来て、給湯室で三人集合となった。
「前にウチに茂武田っていたでしょ」
「いきなりメールで辞めた人だっけ?」
「そうそう。どうも、そいつがパワハラで会社を訴えて来たらしい」
「パワハラってまさか堂道課長?」
「まさかも何も、ほかに誰がいんのよ」
「それ、やばくないー!?」
小夜が声を小さくして叫ぶ。
「やばいかも。堂道、すでにイエローって噂だったし」
糸は、指の先が冷たくなっていくのがわかった。
冷水を浴びせかけられたようだ。何か、とてつもなく怖いものに襲われそうになっている。堂道に嫌われるとかフラれるとか、そんなかわいい次元ではない。絶望に近い恐怖。
「ちょっと! 糸、真っ青だよ! 大丈夫?」
どうにかやっと立っていられるというくらいなのに、両足は根が生えたように動かない。
頭はすごい速さで回転しているようで、思考は停止している。
昨日の夜も堂道といて、二人で家飲みをして、糸が酔っぱらって、ぐでんぐでんになった糸を堂道が寝かしつけてくれて、朝は一緒に電車に乗って、駅で別れて時間差で出勤した。
確かに、数か月前の糸たちは、こうなる日を切に望んでいた。
神様に「お前たちはいつも堂道が左遷されればいいと願っていたじゃないか」と言われたら言い逃れはできない。
ただ、今は違うんです、としか言えることはない。
「……ねえ、大げさに言ってるだけだよね?」
「あたしも、わかんないよ……!」
「……堂道課長、どうなるの!?」
震える声で夏実に詰め寄った時、「玉響さん」と声がかかる。
背後に羽切が立っていた。
「これから会議なんだけど。そこで事情聴取がされると思う」
「事情聴取……」
言葉の出ない糸に変わって、小夜が繰り返す。
その単語ですら、今の糸には刃物のような鋭さを持っているように感じられる。
「堂道課長にパワハラがあったかどうか、ですか」
「俺もまだ詳しい内容はわからない。とにかくできる限りのフォローはするから。心配だと思うけど、席に戻って」
「……はい」
消えそうな声だったが、かろうじて返事をし、糸はどうにか席に戻った。
会議はとてつもなく長く感じた。
そこここで、社員たちが話し込んでいる。
糸も幾度となく視線を感じる。
仕事に集中する。もちろん、集中しているフリだけだ。
ざわめきの種類が変わり、顔を上げると次長や各課長たちがぞろぞろとフロアに戻ってくるところだった。
会議が終了したらしい。
そのなかに堂道はいない。
まだ戻らないのか。
会議室へ様子を見に行こうと席を立った時、肩を叩かれる。
「羽切課長」
「とにかく、今は懲戒会議の決定を待つしかない」
「懲戒会議って……」
糸は目の前が真っ暗になった。
「このご時世だからね、会社もハラスメントにはナーバスになってる。どれだけ堂道に正当性があっても、上場企業として対外的に茂武田の訴えを無視はもちろん無下にすることもできない」
「……何らかの処分が下されるということですか」
「どれくらいの処分になるかはわからない。会社も、茂武田の勤務態度や素行からして信用はしていないようだったし、事件性もないから懲戒解雇までにはならないはず」
糸は瞠目し、次の瞬間、勢いをつけて引き出しを開ける。
メモ帳を取り出すと、
「私、茂武田君が怒られてた内容、控えてます! パワハラじゃないって証拠になりませんか!?」
「うん、わかった。必要なら提出してもらおう」
「証言もします!」
「うん、是非お願いしようかな」
まるで気が触れた人間にするように、やさしくなだめられる。
羽切の目は憐みの色をしていて、気が遠くなる。
「嘆願書とか署名とか集めて……」
堂道を守りたい。しかし、糸などのちっぽけな力では守れない。
耐えきれず、大きな声で叫ぶ。
「堂道課長はそんな人じゃありません!」
フロアが一瞬しんとなり、仁王立ちになった糸は営業部全体の注目を集めている。
しかし、周りの視線など気にしていられなかった。
「確かに怖いし、すぐ怒鳴るけど、本当は優しい人なんです! 部下思いの人なんです! 最近、少しずつ信頼も集めてます。堂道課長は悪い人じゃないって、私が証明します……!」
必死に一息で言い切ったとき、糸は肩で息をしていた。 羽切に向かって訴えたところで仕方がないとはわかっていても、矛先はそこしかない。
まだ、もっと、言わないといけない気がした。
息を吸う。息が苦しい。息ができない。
「……違い、ます」
絶え絶えに言う糸の目からは静かに涙が流れていた。
「堂道課長はそんな人じゃない……」
「おいおい、青春ドラマかってんだ」
背中から苦笑交じりの声が聞こえる。
振り返ると、意地の悪い笑みを浮かべた堂道が立っていた。
「お前ごときの啖呵で進退決まるなら、人事いらねえって」
堂道は手にしていたファイルの背で、自らの肩を叩きながら糸の横を通り過ぎる。
「だって……」
「玉響サン、仕事戻って」
「でも……」
「玉響サン、私情を仕事に持ち込むな。ウザい」
堂道も、二課のメンバーも、その他の部署の人間も誰も何も言わなかった。
フロアはしんとしたまま、堂道が椅子に座った音だけが聞こえる。
「……大丈夫?」
ようやく羽切に言われ、糸は茫然としたまま着席した。
やがて、どこかの島の電話が鳴って、はりつめていた空気がはじけたように業務が次第に再開されていく。
営業部は、なにもなかったかのように終業時間を迎えようとしていた。
*
いつかのリバーサイドで、堂道は川べりの手すりにもたれ、煙草を吸っていた。
吐き出された紫煙が、形になる間もなく強くない川風にさらわれて消える。
糸の姿を見つけた堂道が、ふっと笑った。
ふてぶてしい足取りで近づいていく。
「なんで来てくれなかったんですか。待ってたのに」
「それ以前に、なんでお前がヤケ酒飲んでんだよ」
ショック状態のまま、糸は終業後一人居酒屋で飲んでいた。
『居酒屋でヤケ酒飲んで待ってます』
そうメッセージを入れておいたら、ようやく返ってきた返事には、店とは違う待ち合わせ場所が指定されていて、糸は一人飲みを中断してやって来たのだった。
「懐かしいな、ここ」
堂道はあたりを見回して言った。
あの夜、堂道が座っていたベンチからは少し離れた所にいるが、変わらずセンスのいいライティングが夜の川を演出している。
ライトアップされた斜張橋のケーブルが美しい。
「……懐かしいっていうのは、ちょっと違うような気もしますけど」
「そうだな、お前は違う男といたわけだし」
責められているわけではなさそうだが、冷やかされたところで何の感想もない。言い訳めいたことで取り繕うのも面倒だった。
なぜなら、糸が思い出すのは、隣にヨースケがいたことではなく、ベンチに座っていた堂道の姿ばかりだからだ。
出くわしたことは、当時は本当に悪夢でしかなかったのだが。
たった数か月前の、堂道と交わっていなかった頃の生活はまるで色褪せていて、そんな過去は味のなくなったガムを噛んでいるのに似ていた。
「でも、今ふと思ったんですけど」
「ん?」
「あの夜、ここで堂道課長を見かけたことが、すべての始まりだったのかもしれません」
「全然運命的じゃなかったぞ? なんせ、お前はカレシとデート」
「出会いがすべて運命的なものだなんて思ってるんですか!? ……意外とロマンチストですよね、課長って」
「うるせーよ。男は根本的にはロマンチストなんだよ」
「女は課長が思ってるより現実的ですよ」
堂道は川の方に向き直って、柵に肘をつく。
新しい煙草を手で囲って火をつける。
しばらくして、そこから灰を落とし、暗い水に吸い込まれていく様を見つめながら言った。
「……あの日さ、イチャついてんのが会社の子だって気づいて」
「イチャついたりしてませんけど」
「確かに、ここ雰囲気いいよなーって思って。会社帰りに、夜、二人で歩いたりすんのいいよなー、若い奴らはいいよなー、俺にはもうデートなんて一生ねえけどなー、とか自虐的になってみたりしてたら、まさかその当事者と近い将来付き合うことになるなんてな。ビビるよな。人生マジ不思議」
少し笑って、「だから、ここにした」とまた煙を吐いた。
黒い水面に街の明かりが溶けて映って、鏡面というよりは光る鱗のように、てらてらと揺れている。
表裏一体の闇と光が交互に入れ替わるように、ゆらゆら、てらてらと、けして留まらず、止まらず、ゆらゆら、定まらず、てらてら、せわしなく、形をもたない液体らしく。
「……処分、決まったんですか」
「まだ」
糸は返事ができない。
「転勤になるっぽいこと部長が言ってた」
「……どこへですか」
「さあな」
「遠いところだったら、どうすればいいですか」
「ま、住めば都だろ。俺は関東圏に執着ねえし、わりと地方も楽しめるタチだから転勤を嫌だと思ったことはなかったけど、今はさすがに後ろ髪引かれるモンがないとは言えねえな」
堂道は大きめの声で言うと、思いきりのけぞった。
「ま、しゃーねえよ。身から出た錆だ」
長く長く、堂道は煙を吐いた。
吐き切ると糸を向く。
「お別れだ、糸」
音になって聞こえてしまうのではないかと思うくらい、糸の心臓は激しく脈打っていた。
鼓動はこれ以上なく早いのに、心がみるみる冷えていく。
「期限の三年は、まだ先です」
「それ以前に別れるのはその限りではないはずだ」
「諦めません」
「さすがカッコつかねえだろ。都落ちだぞ。バツの上に前科までついちまって、さすがにもうアウトだ」
「……どのくらいですか、期間」
「あ? さあ、わかんねぇな。終身刑かもしれねえし」
「マンション、どうするんですか?」
「現実的だな、オイ」
「堂道課長に結婚してもらえるかわからないのに、今仕事を辞めるのはリスクが高すぎるので、遠距離がんばります。むしろ、遠距離って条件下で交際が続けば、逆にそれは私の気持ちが証明されて、再婚への加点になりませんか? 課長が不在の間は、私が本社で堂道課長のいい人エピソードを触れ回っておきます。私のおかげで、戻ってこられた時には英雄扱いのはずですよ」
「戻ってこれた時、まだお前いんのか? 女はすぐ寿退社するくせに」
「気を付けてください、それ、セクハラです」
糸の言葉に、堂道は見るに無残な雑な笑いで応えたかと思うと、そのまま目頭を押さえる。
「……待つな、頼むから」
「待ちます」
「ここは、いい人見つけて幸せになれよって、最後に俺にカッコつけさせてくれるトコだろ」
「怒鳴られても、怒られても、キレられても、私、待ちますから」
糸は堂道をまっすぐ見つめて強く言った。
「俺にはお前がまぶしい。俺にはもったいない。俺なんかに糸を縛れない。お前には、未来があるんだよ。だから、ここでお前の手綱を離さねえとダメなんだ。お前に自由をやらなきゃ俺は自責の念に耐えられない」
そう言いながら堂道の手が糸の頬をかすめたとき、かすかに煙草の匂いがした。
「ごめんな、こんな俺で」
糸は首を振る。
違う。
「嫌われ者の堂道課長だったから、私は、好きになったんです」
*
二日後、処分が社内に貼り出され、怒鳴り声が響き渡ることはなくなった。
万歳していた社員もいたのかもしれない。勝訴と書いた紙が回覧されていたのかもしれない。しかし、糸にそれが回ってくることはなかった。
営業部に、皆が望んだ平和で穏やかな毎日がようやく訪れたと同時に、二課の課長席は空席になった。
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