25.堂道課長は帰宅する
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糸は、定時を過ぎるのを待って、羽切をたずねた。
二課の課長席は不在だ。堂道は会議中らしい。
「あの、一応、付き合うことに……」
「……え、まじ! うそ、ほんとに!? 玉響さん、すごいじゃん!」
けしかけたものの、糸たちの進展はどうやら予想外だったようで、羽切のリアクションは、しばらく驚いたのちの祝福だった。
「うわー、まさか堂道にこんな身近で春が来るなんて思わなかったよ。まじかぁー、嫁さんに報告しよ。あ、嫁さんと知り合ったの、実は堂道の紹介でさ」
「え! そうだったんですか?」
「そうなの。だから嫁さんも堂道のことは心配してて。あ、結婚式のスピーチ、俺がするから。絶対俺に任せてよ?」
「いえ、あのまだそこまでは……」
「あ、ごめん。そうだよな。昨日の今日だもんな」
確かに、結婚の報告ならまだしも、上司にわざわざ交際の報告をする社員などいないだろうから、糸も羽切も調子が狂っていた。
「まあ、堂道絡みで悩みができたら相談に乗るから」
「ありがとうございます。あと、一応社内ではまだ内密にお願いしたくて」
「そうなの? 社内恋愛禁止じゃないのに?」
「ええ、しばらくは……」
そう言い出したのは堂道だが、確かに糸も公表には恥ずかしい思いもあって、納得していた。
周囲の反応がうるさいことも想像に難くない。
羽切も同じような意見で、
「そっか。まあ、相手があいつだけに、玉響さんへの風当たりもきつくなりかねないしな」
糸の評価が下がろうとそれは気にならないが、それより今は外野を気にせず、仲を深めることに集中したかった。
「公にするのは結婚の時でいいかもな」
「いえ、だから、あの、まだ結婚とかの話は……」
「ああ、うんうん、オーケー。二人は結婚を前提にしたお付き合いではナイ、確かに了解しました」
「はい、それでお願いします」
羽切に満面の笑みで見送られ、糸は少し残業したが、結局、堂道が席に戻ってくる前に退社した。
家に帰りついて、ようやく落ち着くことのできる環境で、昨日からのことを思い返してみた。
朝この部屋に戻ったときは、睡眠不足と冷めやらぬ興奮と、あと急いでいたこともあって、それどころではなかった。
一人、堂道を想い、堂道のことを考え、叶わぬ恋に身をやつしていたこの部屋に、この先堂道が来るかもしれない。
本当に、人生が何が起こるかわからない。
糸は眠気も忘れて、突如部屋の掃除を始めた。
途中でラインを送る。
付き合い出してから、初めての連絡だ。
時刻は八時を過ぎている。
まだ残業しているかもしれないが、さすがに会議は終わっているだろう。
いつも何時ごろ帰ったり、何時まで仕事をしていたり、飲みに行くのも、どれくらいの頻度で誰と行ったりしているのだろう。
残業することの少ない事務職の糸には知りえないし、わかりえない。
堂道の生活は糸には未知の部分が多すぎる。
『羽切課長につきあうことになった旨だけ報告しておきました』
糸を堂道と共に名古屋に向かわせてくれたのは羽切であると、それは堂道もわかっていることだし、なぜバラしたんだとは言わないだろう。
予想外に、返事はすぐに届いた。
『だからか。さっきから羽切が飲みに行こうとうるさい。忙しいのに』
糸は文面を見て、思わず笑ってしまった。
『羽切課長のおかげで付き合えたようなものなので、邪険にするのは私が許しません! でもでも、堂道課長も今日はお疲れだと思うので無理はしないで下さいね』
『もう家?』
『はい』
『今日は早く寝ろ』
『はい、寝ます』
『週末したいこと考えといて』
『楽しみです。早く週末にならないかなー』
『早く会いたいです』
『じゃ早く寝ろ。寝たら朝が来て、朝が来たら会社だ。よかったな、会えるぞ』
『わかりました、寝ます!』
『おやすみ』
「おやすみなさい」と糸は画面に向かって返事をして、ベッドに寝転がった。
堂道と、こんな風にやりとりするのは初めてだった。
今までは、メッセージは事務的か一方的かのどちらかだった。
タイムラグなしでラリーが続くこともまれで、本当に、付き合っているのだと実感する。
安心したのか、疲れが出たのか、急に眠気が襲ってきた。
昨日からのことをじっくり回想したいがそれもままならず、掃除も途中でやめて、早々に布団に入った。
朝起きてスマホを見ると、日付が変わったころに『今、帰った』とメッセージが入っていた。
今までは、いつどこで堂道が何をしているか、知りたくても何もわからなかった。遠い存在すぎたからだ。
どんな暮らしをしているのか。何時に起きて、何時に帰るのか。何を食べて、何を考えているのか。
昨夜、堂道が帰った時間を知れたことは、些細なことだが、糸にとって意外なほど大きな収穫だった。
堂道夏至という人間の生活が垣間見えた。
堂道が、どんなふうに生きているのかをこの先もっと知っていけるだろうことが、糸は嬉しくて仕方がない。
『おはようございます』と送れば、『おはよ』とそれはすぐに返ってくる。
糸は目覚めが悪い方で、朝起きるのは得意ではない。
それでも、こうして堂道から朝イチで返事が来るので、以前よりは覚醒も早くなった。
糸のアラームが鳴る時刻には、堂道はすでに起きているようで、今度会ったら、一体何時に起きるのか聞いてみたい。
そんなことから始めなければいけないくらいには、知らないことばかりだ。
連日、堂道は忙しそうで、二人で初めて泊まった日以来、仕事終わりに会うこともできずにいる。
『週末は課長とゆっくり話がしたいです』
『ドライブ? メシか? 具体案出せ』
『ではドライブで。楽しみです!』
『デートコースなんて知らんからな。期待はするな」
「あの堂道課長が、どんな顔してデートとか言ってるんだろ……。車とかどうすんだろ……持ってるのかな……」
諸々、どうするのだろうと思う暇もなく、堂道は当日の時間まで決めてくれた。
なんと、糸の家まで迎えにも来てくれるらしい。
「今日どうすんの!?」と、予定は当日の朝になってもまだ適当だったヨースケとつい比べてしまう。
最近は友達との待ち合わせも曖昧なことが多いので、糸自身そんなものだと思っていたふしもあったが、ちゃんと約束が決まっているというのは、百パーセント『楽しみ』だけで待機できるということで、それは正しいイベントの楽しみ方だ。
金曜日、糸は朝からうきうきしていた。
明日は堂道と待ちに待ったデートだからだ。
しかし、離席したタイミングで、廊下でまさかの堂道につかまった。
「おい」
その声に振り返ると、相変わらずのガニ股で後ろから歩いてくる。
「課長。どうしたんですか」
「便所」
「あ、そうですか」
「……煙草吸いに行くことがなくなったから暇だわ」
「禁煙、続いてるんですね」
ポケットに両手を突っ込んだ堂道は何気なく周囲を見渡した。どうやら誰もいないことを確認したようだ。
小声になって「明日だけど」と言う。
「えっ、もしかして、明日ダメになったとかですか!」
「違う違う、違うけど。キミ、ウキウキしすぎよ?」
「ウキウキ? してるように見えます?」
「だだ洩れ」
「まぁ、実際してますから。ウキウキ」
堂道は鼻で笑ってから、穏やかな目で見下ろした。
こんな目の堂道に、普通の上司と部下なら一生お目見えすることはなかっただろう。
「会うか、今夜」
「へ」
「打ち合わせ一本なくなったから、仕事早く終らせることも可能。予定ないんだったら」
「ないですないです! 会います会います!」
「まあ、明日も会うんだけどな」
「明日もですが、今日も会いたいです」
「あ、そ。じゃ、また連絡する。午後からもダダ洩れしないように」
「はいっ! 気を引き締めます!」
堂道は糸の肩を一つたたいて、追い抜かして行く。
そして、肩越しに、
「あんた、カレシには、そんなカワイイのな」
そんな捨て台詞まで残して。
「え、それ、どういう意味……」
堂道の目に、糸がかわいく映っているという解釈でいいのだろうか。
「……なに、もう、私……キュン死にするかも」
そんな言葉を堂道相手に使うことになろうとは、糸の人生想像もしていなかった。
堂道には、嬉しい誤算ばかりだ。
仕事を終わりに待ち合わせをして、夕食を食べに行くことになった。
恋人になってから、恋人らしいことをするのははじめてだ。
指定された店は予想外に、小ぢんまりと、小ぎれいな、割烹だった。
個室を予約までされていた。
「堂道課長って、恋人には優しいんですね、すごく」
「そーかぁ?」
日本酒を手酌で猪口に注ぎながら言う。
「ああ、俺、姉がいんだけど、女王様で俺は奴隷だったから、知らずのうちに仕込まれてんのかもな」
見た目に寄らず、意外にも女の扱いを心得ているのはそういうことかと納得する。
「お姉さんと、弟さんの三人姉弟なんですか」
「そ、一応真ん中。だから、こんなひねくれちゃったのよ」
「真ん中ってひねくれるんですか?」
「だいたいそうなんじゃねえの? 糸は兄弟いんの?」
「兄がいます」
「あー、いそうだわ。兄ちゃんいくつよ?」
「三つ上なんで、来年三十とかですかね」
「ひー」
堂道は大げさに震えて見せる。
「ま、俺と糸も、いろいろジェネレーションギャップとか体力差とかこの先、問題は出てくるだろうけどさ、一緒にいる間は折り合いつけて楽しくやろうぜ」
「未熟者ですが、精一杯頑張りますから」
「……いいんだよ、お前は、頑張らなくても。頑張らねえといけねえのは俺だわ」
「課長が頑張るようなことは何も……」
「若い糸チャンを満足させられるようにとかな」
「下ネタ?」
「オッサンだからな」
「大歓迎です!」
「男になんでも許しちゃダメです。すぐ調子乗っちゃうんだぞ、男ってバカだから」
「課長、好きです」
ちょうど酒を含んだところだった堂道は吹き出して、慌てておしぼりで口をぬぐった。
「ちょ、なんだよ、いきなり、そんなドストレートな……」
「……なんか、信じてもらえてないと思って」
「わかってるよ、ちゃんと。糸が本気で言ってくれてるってことは」
伝わっていないとは思っていない。
大事にされていないとも思っていない。
ただ、言わずにはいられなかった。
堂道はここまで、糸が不安になるまえに、言葉や態度でちゃんと安心させてくれる。
できすぎた彼氏だと思う。やはり年の功だろうか。
それでも、見えない壁があるような気がする。
どうしても、どうやっても、最後の最後で、堂道に触れられない気がする。
それも、当然かもしれない。
だって、二人はまだ始まったばかりなのだ。
しかし、糸の不安は近い将来見事に当たる。
良くも悪くも堂道は誠実だった。
*
糸は、今夜の宿にまたシティホテルの予約を取ろうと言いだした堂道と問答になった。
「だから何の意地なんですか。課長の家が遠いんなら、ウチが近いですって」
「おま、いいトシした男が部下の家に行けるか」
手が煙草を探していたことに自分で気づいたらしく、ばつの悪い堂道はわざとらしく頭をかいている。
「だからそれ、何の見栄なんですか? 昔取った杵柄かなんか知りませんけど、バブル思考はもう忘れてください」
「バブル世代じゃねーって言ってんだろ」
「この先、毎回どこかに泊まるつもりですか?」
「いや、それは、そのうち家にも呼ぶし、呼ばれたりするだろうけど……」
「そりゃ確かにうちは狭いですよ? 堂道課長みたいな背の高い人が来たら天井につくかもしれないし」「つくかよ」「ベッドもシングルだし、足もつっかえちゃうかもしれないけど、普通の一人暮らしです。普通に、過去の彼氏も来てましぎゃっ」
堂道は糸の鼻をつまんだ。
「その情報いらん」
「……変なところで頑固っていうか、変なところで、課長ダサイ」
「ああン?」
睨みをきかせてくる堂道にひるむことなく、糸はさらに踏み込み、
「だったら堂道課長のマンションに連れて行って下さいよ。遠くてもまだ電車もあるし。どうせ明日も会うんだし。それとも私は行っちゃダメなんですか?」
「悪かないけど」
「あー、さっきまで課長は意外とやることスマートでかっこいいと思ったのに……」
「おい、過去形かよ。あと、『意外』は余計だ」
堂道の頬がひきつっている。動揺してる様子に、糸はざまあみろと思った。
普段はどちらかというと従順な糸だが、酒が入ると強情になると友人から言われる。
「わぁーたよ! 部屋片付いてねえぞ」
「ルンバ二台もあるのに?」
「なんで知ってんだよ。羽切か!」
「大丈夫です。独身四十男の生活にオシャレな部屋とか意識高い系の生活とか、そんなの期待してませんから」
「……糸チャン、酔うと結構言う系……?」
堂道は隣を歩く糸の手をとった。
「じゃ、帰るか」
「はい!」
帰りの電車の中で、堂道はなぜホテルをと言ったのか教えてくれた。
言い分としては、まだ付き合って数日なのに、生活感はいらないだろうということらしい。
ムードや理想に重きを置くタイプのようだ。
「もうそれ考え方古いです」と言ったら、とりあえず怒った後で少し考え、「俺、もしかしてアプデできてない?」と悩んでいた。
糸だって、ホテルステイはロマンチックだと思うし、憧れは憧れだ。しかし、悲しいかな、まずもったいないと思ってしまうつましい世代だ。
糸は、どこだって、なんだっていい、一緒にいられるなら。それが一番重要なことなのだ。
「そうは言っても、俺にできることはそんなことくらいだからさ。そこは頑張りたいわけよ」
と、前にも聞いたようなことを言った。
「ここ」と言われて見上げた建物は、駅からすぐのファミリータイプのマンションだった。
草太に、以前結婚していたときに購入したであろうことは聞いていたのでショックはない。
部屋は、十四階建ての十三階で、エレベーターを降りると風がきつかった。
堂道の部屋は一番奥の角。
玄関のスマートキーを、堂道はボタン一つで開錠した。
糸は、人の家の匂いが嫌いではない。とくに好きな人ならなおさらだ。
「……失礼致します」
「どこの会議室だよ」
堂道が笑う。「アレクサ、電気」の一声で部屋が明るくなった。
「……課長、めちゃくちゃ亭主関白ですね」
「ウチのバーチャルワイフはできた女だ」
部屋はリビングが広くて、すっきりとしていた。
脱いだ服や新聞や郵便物でテーブルやソファは雑然としているが、食事のゴミや空き缶などで暮らしが腐敗している様子はない。なんなら、荒んでいるときの糸の家の方がひどいくらいだ。
あまり生活感がないのは毎日の帰宅が遅いせいだろう。
煙草の吸殻も見当たらない。
「意外と綺麗ですね」
「上からだな」
「すごく広くないですか」
「もともと和室だった間取りをぶち抜いてリビングにしてるからな」
堂道はネクタイを抜き取って、シャツのボタンに手をかけた。一つ二つはずしたところで、一旦動きが止まる。
糸も我に返った。
堂道の仕草に見とれている場合ではないし、間取りも今しなくてもいい話だ。
ため息交じりに堂道は、脱ぎかけのままソファに腰を下ろした。
「な、そーゆー雰囲気にならねえだろ?」
確かに、そういう雰囲気も勢いもなく自宅に来てしまった場合の、堂道の言いたいことがわかった。おまけに、仮想妻のおかげで部屋の電気は煌々と明るい。
「こちとら、もう勢いのないオッサンだからなぁ」
くたびれた様子で言う。贅肉の全くない身体は薄っぺらい。
堂道の横の、ソファの端に糸は座った。
わざと間隔をあけた。
「……そういうムードがないと、私相手じゃ抱く気が起こらないってことですか」
挑発的に言ったつもりはなかったが、堂道は誘われてしまったらしい。
さっきまでの老いた草食動物みたいな堂道といきなり打って変わって、ライオンのように覆いかぶさったかと思うと、糸を力強く押し倒す。
「抱く気があるから連れて帰ってきたんだろうが」
堂道の舌の動きが怖いほどで、胸が苦しくなる。呼吸の話ではない。胸が痛んで辛いのだ。
こんなに激しく求められるキスは前回にはなかった。糸も必死に口内で応える。
なぜか泣きたくなった。
だからといって、その涙は喜怒哀楽の感情からくるものではない。
泣きたくなるほど、好きなのだ。
「ムードも、雰囲気も、いりません……」
そんなものを用意するより、抱きたいときに抱いてほしい。
堂道が抱きたいと思う時、いつでも、すぐに。
「んなこと言ったら、ただのサルみたいになっちまう」
「……そんな求め方を、される方が嬉しいです」
とろける思考の中で何とかそう言い終えて、今度は糸からキスを求めに行く。
堂道は唾液の混ざった呼吸の合間に、苦笑した。
「ちょっとくらいカッコつけさせろ、ボケ」
脚の間に堂道の身体が入り込んだせいで、スカートははしたなくめくれている。
服の上から身体をまさぐっていた手が、糸の肌に直に触れる。
アレクサは空気までは読んでくれない。
堂道が言うとようやく消灯してくれたが、キスの合間の端的な命令では、全照明がオフになったようで、
「あいつ、真っ暗にしやがった!」
「……消せとか、強く言うからじゃないですか? お願いしないと。ムードある照明にしてって」
糸の言葉にとたんに部屋に明るさが戻る。
そのまぶしさに、仰向けだった糸は思わず目を細めた。
「ウチの嫁は加減を知らねえな……」
二人の熱気はそこで一旦霧散し、結局明るい中で起き上がったのだった。
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