見出し画像

なぎさホテル(伊集院静)

人生には、回り道や寄り道が必要だ。
そんな言葉をよく耳にするけれど、私は過去のことをあまり憶えてないので、どれが回り道でどれが寄り道だったのか。それでも記憶を辿っていたら、ああ、もしかすると、今がそれかもしれないと気づいた。

『なぎさホテル』は、伊集院静さんが作家になるまでの過程で七年間暮らしていたホテルが舞台。
やっぱりお金持ちはやることが違うなあと感心して読み始めたら、まったくの思い違いだった。

「いいんですよ。部屋代なんていつだって、ある時に支払ってくれれば。」
当時の著者はお金を持っていなかった。家族と離別して、一人故郷に帰る前に立ち寄った逗子の海岸でI支配人と出会ったのだ。

「昼間のビールは格別でしょう」
その一言から始まった七年間の暮らし。
宿代が無くても定職が無くても、ホテルはいつも彼にあたたかい。

「あせって仕事なんかしちゃいけません。正直言わして貰うと、仕事だって、そんなに必要ないのかもしれませんよ。」
なんておおらかな支配人だろう。

そう言えば、私が子どもの頃、母が経営する小料理屋に数人の大学生が出入りしていた。皆んなお金が無いので、店の片付けや掃除、私の家庭教師などをして夕飯を食べて帰っていた。
「お金なんていいのよ。」
気風のいい母も、誰にでもそんなことを言ってたわけじゃない。

I支配人が、著者をホテルに受け入れたのも、きっと彼の人柄や才能を見抜いていたからだろう。
そして、この無駄だと思える七年間は、著者が「伊集院静」になる礎になった。

人生の回り道は、何も実らない日々。何も生まれない空虚な時間。でも、人がもう一度歩き始めるための大切な準備期間。長く生きれば誰だって、体や心のバッテリーが空っぽになる時がある。
そんな日々の中で、誰かに信頼され誰かに見ていてもらえたら、また何とか立ち上がれる。
回り道が逗子の海となぎさホテルだなんて、やっぱり伊集院静はカッコいい。


2023年11月、突然の訃報。
なんとも残念で寂しい。
心からご冥福をお祈りします。








いいなと思ったら応援しよう!