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あの夜の桃味のスプーン

世界に広がったウィルスと 偏屈な従兄弟が引き篭もってしまっせいで 大好きな叔母に会えたのは約3年ぶり。 母にとって、叔母は歳の離れた姉であり母親に近い存在だ。 次に会うときは、私と3人で温泉にでも行こうと話したのが最後になった。 その時にも痴呆は少し進んでいたけれど まだ会話は何とか出来たし、笑顔もあった。 つい数日前 老衰でおそらくもう長くないと言われたと 従兄弟が母に電話をかけてきた。 電話のむこうの彼の声が少し詰まって心細そうだったと、急いで叔母の家に車で向かうこ

    • 写真

      仏壇に飾っている父の写真は 私が撮った。 家族で旅行したとき、記念にとカメラを向けたときのもの。 普段は嫌がるのだけど このときは弟の結婚式で行ったハワイだったし、珍しい母とのツーショットだった。 笑ってよ、と言ったら 普段シラフでは険しい顔が少しだけゆるんだ。 笑顔の入り口。笑顔になる前の顔。 お通夜、告別式までの時間は 本当に嵐のようだった。 母は放心していたし、みんな忙しくて 遺影の選択は私に任された。 それにしても。 探しても探してもそれっぽい写真が見つからない。

      • 独唱

        2人で山の別荘に行ったとき 夜、ご飯を食べ終わってほんわかした気持ちになったのは良いんだけど、そこから幸せな気分がどんどん高まっていってもう、ほんとにどうにも止められなくなった私。 なぜかダイニングテーブルに登り、仁王立ちでお気に入りの歌を滔々と歌い続けた。 森の中にひっそり建つ家だから、誰にも聞かれない。私の歌声以外は風や虫の声、木々や葉のすれる音だけ。 おう!いいぞいいぞ、歌え歌え!上手だなぁ! 夜の闇に私の歌声が響く。上手くもなんともないのだけど。きみがテーブ

        • パラレルワールド

          もし、時間も空間も次元も超えてパラレルな世界がいくつも繋がっているのなら、あの幸せなお風呂の時間が今もどこかに存在したらいいな。 あの頃、良くたんたんと2人で狭い湯船にギュウギュウつかって、チェッカーズのSONG FOR USAをハモる練習をしてた。それもめちゃくちゃ一生懸命に。 たんぼう、上手だねぇ!よし、もういっかいやるぞ! ディスィズソンフォユーエスエー!さいごのあめりかのゆ〜め〜を〜、い〜ま〜ここへ〜きて〜おなじ〜うた〜を〜うたぁってくれぇ〜! 真剣にやれよ!

        あの夜の桃味のスプーン

          わたしが出会った妖精たち その壱

          わたしの住むこの街の不思議なところ いくつかあるけど、ダントツは「個性的すぎるお爺さん」に遭遇しまくるところだ。 通りすがりにエッチなことを言ったり、恥ずかしいものを見せたりという、その類の変質者には会ったことはない。他の人は知らないけど、私にとっては至って平和な街である。 なんというか、とにかく変テコなのだ。それも一人じゃない。次から次へと現れる癖爺たち。 こんなしょっちゅう個性的なお爺さん(限定で)にみんな会うものなの?誰かに聞いてみたくなった。 ☆其の一、パン

          わたしが出会った妖精たち その壱

          キオクのもと

          自分のこころにあるものを形にして残そうと決めたけど、深刻ではないにしても、どうも暗い。そして重い。 もっとポップで明るく、楽しげな話はないものか。色々と思いめぐらせたら何にも書けそうな事が無かった。私の生活や性格が暗くて重いから?いやいや、全くそんなことはなく、どちらかといえばスナック菓子片手にテレビでお笑い番組を観て、ヘラヘラ笑いながら毎日を過ごすようなお気楽すぎる暮らしなんだけど。 私のなかの風景。それをなぞるように線にして色をつけたら、その時に忘れてきた何かを見つけ

          キオクのもと

          肉の欠片

          長く長く付き合った恋人と引きちぎるように別れた。 私の父がもう長くないとわかって見舞いに来た彼は父に、私と一緒に生きていく覚悟があると言った。覚悟して一緒にいてもらわなくていい、と私が口を挟むと「お前は黙ってろ!」と父と彼は同時に言った。その時の父の心のつかえが取れたような、嬉しそうな表情が忘れられない。そうだ、その時「ありがとう!」と、ベッドに両手を着いてお礼まで言っていた。 自分が取り残されたような気持ちと、嬉しさと、悲しさがごちゃ混ぜになったまま私はそこに立って彼と

          肉の欠片

          鍋の底

          若い頃から次々と病気をして 入退院を繰り返して来た父に、肺癌が見つかった。 父が入院していた病院は家から一時間以上車を走らせなければいけない場所だったけれど、肺炎や逆流性食道炎で苦しんできた父は、その専門分野で信頼出来る医師のもとへずっと通っていた。 入院すると、父は病院の食事はそこそこに、母の料理を欲しがった。毎日面会時間ギリギリまで病院に付き添って、翌日には早朝に作った料理を一時間以上かけて運ぶ。 何年もそんな生活を続けてきた母の疲れがピークかと思われた頃、父の病状は「も

          あのこは河童

          独立して事業を立ち上げた父と、それを手伝う母。忙しくて子供達に構うことが出来ないと、夏休みのあいだ徳島の祖母のもとに私と弟を預けることにした。私が小4、弟は小3だったと思う。 あの頃は普通のおばあちゃんがいいのに、とずっと思ってた。徳島に引き上げるまでは大阪にいたけれど、祖父とは私の記憶の最初からずっと別々に暮らしていた。 色黒で大柄、エキゾチックな顔立ちで遠くにいてもすぐ見つけられるぐらい目立つ。酒で潰れた声、昼間から近所の飲み屋でコップ酒を煽っている。etc etc

          あのこは河童

          アンテナ

          そちらはどうですか? お父さんが旅立った日が巡って来ると、この場所に来て東京タワーを見上げる。 宇宙のむこうまで届きそうな気がして。 ピーッ ピピーッ わたしは元気です ピー ピピピー またいつか会えるまで またね

          アンテナ

          大人の飲みもの

          いまどきのお父さんっていうと優しくて家族サービスも欠かさない身近な存在だけど、うちの父は全然そんな感じゃなかった。 酔っ払ってるときお喋りになる以外、普段は無口。食事中の躾にも厳しくて、父がいると軽く緊張した。昭和真っ盛りにはチラホラいたアナログなタイプ。 そんな父のしぐさで印象深く記憶に残っている場面がある。 食事を終えたテーブルには私と父の2人だけ。父は、海苔の佃煮の瓶にスッと手を伸ばす。手早く蓋を開けると中の黒く光った海苔をひとすくいして湯飲みの中へ。注いだばかり

          大人の飲みもの

          キオク

          小学校のとなりにあるスーパーの前には小さな砂場やブランコがあって、私は学校の帰りには必ず立ち寄った。 小学校に入ったばかり。 背中に乗せたランドセルは、自分の体より大きかった。 手にはビニール袋。 給食で食べられなかった食パンが入っているのだ。 なんでそんなことを始めたのかは覚えていないが、そのパンを、チビまりは広場にいる沢山の鳩に毎日あげていた。 最初はちょっとずつ、ちぎったパンを地面にパンを落とす。どんどん鳩が集まってくる。鳩がパンをつついているのを眺めるのが