靖国神社崇敬奉賛会青年部あさなぎ『神道研修会』② 沖縄慰霊の日と牛島中将(東京都千代田区)
東京のタクシー乗務員、みやびです。🚕💨
靖国神社に泊まった話を書いてみたいと思います。
前回もご説明しましたが、私は靖国神社の奉賛会に加入しており、そこの青年会で『神道研修会』がありました。
昨日一昨日の、2日間でした。
タクドラの私はいつも金曜は8時に会社へと戻り、自宅に帰るのが9時10時を過ぎます。
神道研修会は土日の開催のため、金曜の明けは何とか早上がりし、3時間弱の仮眠を取って研修会に向かいました。
しかし、朝。朝に眠りについて、朝起きてるんですけど朝。笑😆
早めに起きて、支度は済ませたものの動悸が酷くなり、出かけられない状態に。ヒーッ
青年会の催しには初参加の癖に、15分くらい遅れてしまいました💦
自分では更年期障害だと思ってますけど、助長させてるのは過度のストレスかなぁ… 😓
さておき。
この『神道研修会』では、禊(みそぎ)も取り行うとありましてね。
来週は沖縄に行き、今年も『沖縄戦全戦没者追悼式』(以下、沖縄戦追悼式)を見学しますから、身も心も清めて行くことにしたのです。
沖縄戦を考える時、自分にどんなに辛いことがあろうとも『生きていたくない』なんて、思ってはいけない!と反省しまして。。。
知れば知るほど酷い、沖縄戦。
亡くなられた方1人1人に夢も未来もあって、家族や友人が居て、家があり、その戦没者を前にして辛いこと乗り越えられないことなんてあるはずもなく。
東京の靖国神社には、沖縄戦で戦った人達も祀られています。
色んな思いがあるけれど、靖国神社は色んな思いがぶつかる程の影響力がある訳で…
今回は、沖縄戦の総司令官・牛島中将(死後、大将)について触れてみます。
沖縄・慰霊の日。
毎年6月23日は、沖縄の条例で定められた旗日です。祝日と言うのは躊躇われますから、私は旗日と表現するようにしています。
この牛島中将が自決し司令官が不在となったことで【沖縄戦の組織的な戦闘が終了した日】
それが慰霊の日となっているのです。諸説もあり、実際には6月22日が自決日とも言われています。
さて、靖国神社には境内に資料館の『遊就館』があります。
この館に、牛島中将が自決した際の刀が納められており、見ることが出来ます。
牛島中将のお孫さんが書いた『第32軍司令部壕』にも書かれていますが、牛島家はお祖父様の命日を6月22日とし、毎年ご家族で靖国神社に参拝なされるそうです。
沖縄戦総司令官・牛島満。
南部撤退命令を出し、とんでもない数の沖縄の住民を戦場に巻き込んでしまった人…
私には、牛島中将が良いか悪いか、断言することは出来ません。ただ、こんな事を考えたりはします。
令和の時代、この2024年は終戦から約80年。
長い江戸時代が終わり、、明治・大正ときて昭和の時代、1945年は幕末から約80年。
およそ80年の中間に、太平洋戦争があった。
Nipponハラキリ、どうしようもない時に日本人はお腹を切って詫びていた時代から、80年も経っていない。
そういう考え方をしていた人達が、その人達の親で祖父母で曾祖父母で、その価値観は現代とはまるで違うだろう、と。
海外ならば、司令官が死を決めた時に服毒自殺か縊死を選びますもんね、、辛い死に方を選びません。
自分の判断からどんなに多くの人を死なせてしまっても、偉い人達は自分が如何に苦しまずに死ねるかを考えている訳です。
一方で、牛島中将らは日本人らしく、わざわざ痛くて怖い切腹で亡くなっていますのでね。
そして彼は、鹿児島出身・薩摩隼人。更に教育に携わっていた人物です。
どう生きるか、どう生きたか、死に様をどう選ぶか?
時代の死生観や責任の取り方など、その時その場でまるで異なるはずなんですよね。
海軍の太田少将(死後、中将)は英雄視され、私も素晴らしい人物と思いました。けど、、、
戦争が終わると思っていなかった陸軍の牛島中将らは、せめて沖縄で食い止めようとしたのでしょうね。
このことを語る時、沖縄の人達は『沖縄を捨石にした』と書きますけれど、戦争が終わっていなければ日本軍はきっと、本土でも同じことをやったように思います。
沖縄戦は、【広島や長崎への原爆投下=米英軍が加害者】ではなく…
日本軍の作戦や対応に問題があって【沖縄での地上戦=日本軍が加害者】
先陣を切らされた沖縄に哀悼の意を述べ、『ぬちどぅ宝』
で、私はこれからも歴史を学び続けます。
学びをなるべく分かりやすく書いてゆきますので、ぜひ皆さんもご一緒に考えてみてくださいね!
次こそ、靖国で学んだ事を書きましょう!続く。→