コロナにおける実名報道について 〜NYT5/24一面から考える〜
コロナに感染し、なくなった1000人もの名前が、新聞の一面を飾った。
アメリカ時間で24日日曜日に出されたニューヨークタイムズの一面だ。
亡くなった人の名前、年齢、職種、住んでいた場所、その人に関する一言などが、活字で載せられている。
アメリカで、新型コロナで亡くなった人はまもなく10万人にのぼると言われている。
今回新聞に載ったのはそのわずか0.01%の人たちの名前のみだが、考えさせられるものがある。
亡くなった人たちの人生はどんなものだったのか、決して人数だけで片付けられるものではない。
一人ひとりの尊い命があるということを痛感させられたものだった。
「今日の感染者数は…死者の数は…」
毎日のようにニュースで流れてくる、この結果。
数が少なかれば安心し、数が多ければ「またか」と落胆する。
いつの間にか、死者の数よりも、1日の感染者数の方ばかりを気にし、
「こんなに騒いでいるけど、でも亡くなっている人はそれほどいないのでは」と思ってしまう自分もいる。
そんな自分さえ余裕のない中で、私たちはどれほど「コロナで亡くなった人のことを考える時間」を持っているだろうか。
コロナで亡くなった人にも、他の要因で亡くなった人同様、その人の人生があり、その人の家族や友人、それぞれの物語があったはずだ。
しかしこの混乱の中で、彼らはあくまでも「死者のうちの1人」として社会に認識され、「亡くなったあの人」としては認識されない。
もちろん、世界中の人が混乱し、苦しんでいる状況下であることは理解できるし、だからこそ他人のことを気にしている暇がないというのも一理ある。
でも本当にそれでいいのだろうか。
同じ社会に生きている人間として、彼らの死を「コロナの死」としてまとめてしまっていいのだろうか。
もし自分の家族がコロナで亡くなったら?
あまり考えたくはない仮定を考えてみる。
「もし家族や、自分に近しい人がコロナで亡くなったら…?」
たとえ、この状況下であったとしても、その人が亡くなったということは紛れもない事実であり、他の要因で亡くなった場合と何ら変わらない「死」だ。
しかし、周りに助けを求めようとも、彼らは自分たちのことでいっぱいいっぱい。もしかしたら、人によっては「みんなも苦しい時期だから、周りに助けを求めるのはやめよう」と思う人もいるかもしれない。
そして結局、自分の身近な人も「コロナで亡くなった人」として社会に認識される。自分の身近な「その人」は決して、ただコロナに犠牲になった哀れな人ではないにも関わらず…。
ここからはあくまでも私の個人的な考えだが、
近しい人をなくして、悲しみのどん底にある中で、何より辛いのは、
「社会」がその事実を認識せず、その人を失った後も、世界は普通に動いていくということに気がつくときだ。
自分が苦しんでいても、今日も世界は回っている。
このコロナの時期ではその事実が重くのしかかる。
自分の周りで亡くなった人、その人のことを考えれば、とても悲しいが、
社会はそれを「コロナで亡くなった人」として認識する。
そして、自分は今日も健康に生きていられることを感じながら、社会はいつも通り動いていくのだ。
大切な人のコロナで亡くしたその人は、心の底から孤独を感じるだろう。
「もう誰も助けてくれない」
「私の大事な人は、コロナで亡くなった1人ではないのに」
「誰か気がついてほしい」
NYTが出した究極の「実名報道」
今回、NYTが載せた1000人の名前は、このような気持ちを抱える人々に
十分応えられていたのではないか。
「あなたの感じている寂しさを共有しよう」
「亡くなった人はコロナで死んだ人ではなく、その人の人生を終えた人だ」
名前の一つ一つを見ると、そんなメッセージを受け取れる気がする。
そして改めて新聞が持つ力に感動する。
一日中家にいるにも関わらず、毎日多くのことが変わり、人々は生活様式の変化を強要される。
気がつけば、自分の心もボロボロになり、ふと「コロナ感染者」や「死者」の一人ひとりのことを蔑ろにし、あまり気にかけてこなかったことに気づかされる。
「今回の感染で亡くなった人にも、その人の人生があった。他の死因で亡くなった人と同じように彼らにも目を向けられる必要がある」
この記事を見て、改めて人の命の尊さについて考えさせられ、亡くなった人々に対して思いをはせたくなった。
そういった意味で、今回NYTが亡くなった人の名前を載せたことには、心の底から「すごい」と思う。
この実名報道を日本でも…?
実名報道は、匿名性の強い日本では特に毛嫌いされる。
プライバシーがない、メディアが押しかけるから危険だ、メディアの金儲けだ、などとネットで批判されているのをよく見る。
その傾向は、私が個人的に集計をしたSNSでのアンケートでも顕著にみられた。
「コロナ感染者、亡くなった人のことを実名で報道するのはあり?」
こう問うたところ、およそ2割が「あり」、およそ8割が「なし」と答えた。
実名報道そのものがあまり良く思われていないのだと、思う。
少なくとも今回のNYTのような「実名報道」のスタイルは、現在の日本の新聞ではできないだろうし、同じことをやろうとする新聞社もないだろう。
しかし、この実名報道には目には見えない力が、何かある。
私は彼らの名前や、一緒に記された一言を見てそう感じた。
亡くなった人々の個々の物語を伝えることは、必ず何かしらの大きな意味がある。
自分が新聞社に入ってからも、「実名報道」について何かしらのアクションを起こしたい。そう思えた。
最後に、亡くなった人たちに対して。
どんな気持ちでしたか?
聞きたいことはそんなことだ。
罹患している本人も、明日どうなるかわからない、十分な治療も受けられるのかわからない中、どんな気持ちで残りの日々を送っていたのか。
不安でいっぱいだったか。
それとも、不思議と笑顔でいられたか。
苦しかったか。
感染してしまったことを悔やんだか。
はたまた、このウイルスが蔓延したことに対して、恨みの感情を持ったか。
感染の恐怖、世界が変わっていく恐怖、そして自分が「死」する可能性のある恐怖。
あらゆる恐怖が重なった中で、命を落としていくのは相当のものがあったと思う。
きっと想像を絶する悲しみだったろう。
感染もしていない、普通に生活を送れている自分が言えたものではないが、
「あなたたちの死は忘れられていない。しっかり社会に刻んでいくから安心して欲しい」
そう伝えたいと感じた。
参考:New York Times 5/24に投稿されたデジタル版の記事。新型コロナウイルスで亡くなった1000人もの名前を載せている。