見出し画像

死ってなんだろう④

前回のつづきです。
今回は<死の瞬間の恐怖>について考えて行こうと思います。



死の瞬間のイメージ

死の瞬間と聞くと、みなさんはどんな想像をしますか?
私が想像する死の瞬間は、こんな感じです。

・部屋の電気を切るように、すべてが真っ暗になる

・眠る時のように意識がゆっくりと薄れて、やがて消える

・気がついたら身体から魂が抜け、自分の身体を見ながら天に昇っている

・気付いたら目の前には三途の川がある

・遠のく意識の中、天使や死神、如来様、先祖の迎えがくる


など。これらのイメージの基になっているのは、映画や小説などの創作物。人々の想像で作られた世界が、私の死の瞬間のイメージになっています。死の瞬間はどんなものか。実際は、死んだ人にしか分からないことです。
そんな死の瞬間のイメージは、人の数だけ存在し、その種類は宗教・文化の影響も大きく受けています。

オラース・ヴェルネ「死の天使」
阿弥陀二十五菩薩来迎図 (知恩院所蔵)

このように人々は死の瞬間を想像してきました。
しかし、この「死の瞬間」とは、一体どの時点で発生するのでしょうか。


死亡時刻は本当の死の瞬間を示していない

一般的に、人が亡くなると死亡診断書あるいは死亡検案書など、死亡したときに作成される書類には死亡時刻が記されています。
多くの人が、この死亡時刻がその人の死んだ瞬間と思っているかと思います。でも実際は、死亡診断書に記載される死亡時刻は、人が死んだ瞬間を正確に記載したものではありません。

死亡診断書の<死亡したとき>


それはなぜかというと、死亡診断書に書かれる時刻は、医師が最期の診察(死の三大兆候)を確認した時間だからです。

※死の三大兆候とは、不可逆的な心停止・不可逆的な 呼吸停止・瞳孔散大、対光反射の消失呼吸(不可逆的な脳幹機能の消失)を指し、もう生き返ることはない=死亡の判定基準。

医師の診察で、死の三大兆候が確認されれば死亡確認となります。医師は、この最後の診察をした後、
「瞳孔の広がりと光を入れた時の反射もありません。心音と呼吸音も聞こえませんでした。呼吸と心臓の動きも停止しています。これらの確認をもって死亡とさせていただきます。…ただ今の時刻(時計を確認)〇時〇分をもって死亡確認とさせていただきます。ご臨終です…(深くお辞儀)」
といったことを遺族に伝えます。

このように死亡時刻は医師が時計を確認した時刻で決まります。ですから、診察を丁寧にゆっくり行う医師と、スピーディーに診察する医師とでは死亡時刻も差があります。また、このとき医師の時計が3分遅れていれば、遅れた時間が死亡時刻として記載されます。

その他にも、家族全員揃ってから死亡宣告をして欲しいと希望があれば、そういった家族の意向を尊重し、ご家族が揃うまで待つこともあります。実際、心停止してから家族が揃うまで4時間ほど待ったこともあります。

このように死亡診断書の時刻は、あくまで医師が診察した時の時間であって、本当の死の瞬間を示したものではありません。



本当の死の瞬間はいつ?

社会的に残される記録では、本当の死の瞬間はわかりませんでした。では、本当の死の瞬間は、いつ訪れるのでしょう。

わたしたちの身体は、呼吸や心臓が止まると、全身に血液や酸素が行き渡らず細胞は機能を停止します。
しかし、呼吸や心臓が停止した瞬間に、全身のすべての機能や細胞が同時に停止するわけではないのです。

生理学的には、血流停止後、酸素の供給が途絶えた全身の細胞の内、神経細胞などの脆弱な細胞から、数分以内に不可逆的な変化が始まり、最後に筋繊維などの一番疎血に強い細胞が死滅する。末梢の、上皮など血液以外から酸素を得られる細胞では血流の停止による水分の不足(乾燥)、電解質の異常などを原因に細胞死が始まる。乾燥から免れ、周囲の空気から何とか酸素が供給されている場合、毛根などの細胞はしばらく生存する可能性もある…

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/死後変化


このように、呼吸・心停止直後から神経細胞などの脆弱な細胞から死に始め、筋繊維など鬱血に強い細胞は最後に死んでいきます。また、脳の機能に関しては、段階的に機能を停止していくという研究結果があります。


英紙インディペンデントによると、今回の調査で、心臓が止まったり生命の兆しが見られなくなったりした後でも、脳内では3〜5分間ほど脳細胞や神経細胞が活動していることが分かった。その後、「拡延性抑制」と呼ばれる電気的な波による活動が脳内で起こる。調査チームによると、これは脳が死亡に際して「シャットダウン」する前の最後の瞬間に起こる短い活動だという。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/5-40_1.php

このように、わたしたちの身体は死の三大兆候を確認された直後であっても、突然機能停止をするわけではなく徐々に機能を失っていくのです。

つまり、身体機能としては、息を吹き返したり心臓が動き出すことはありませんが、全身の細胞が停止するまでは、自分の肉体の中に生きている細胞がいるということ。

こんな話を聞くと、
「生き返ることはなくても、もし、まだ生きている部分があるなら死んだことにしないでで欲しい」「すべての細胞が死んでから死亡とするでもいいのではないか」と、そう思う人もいるかもしれません。

ですが、肉体的な死を完全に見極めるのは、大変難しい話なのです。


完全な肉体死を確認するには


全身の細胞の死を確認することは、現実的ではありません。死の三大兆候を確認後、全身の細胞がどのタイミングで死滅するかはわかりません。身体状況や保管状態にもよります。また、確認するためには何度も、特別な環境で組織を切り離し顕微鏡で確認する必要が出てくるでしょう。

しかも、その工程が終了するまでに、すでに死滅した細胞は時間経過とともに腐敗していきます。腐敗が進む中、生きている細胞を探し出し検体を採取する必要があります。それも、皮膚の一部だけではなく、あらゆる臓器の細胞の検体を取り出す必要が出てきます。

完全にすべての細胞の死が確認され自宅に戻る頃には、肉体は腐敗が進み、生前の面影がなくなった体になるかもしれません。倫理的にも心情的にもかなり辛いことです。


結局、死の瞬間はどこになるのか

肉体の死は瞬間的ではなく段階的に行われ、全身の細胞が死ぬまではある程度の時間が必要だと分かりました。
肉体に残る私たちの細胞ひとつひとつが死に絶えるまでが生とするなら、腐敗した身体も私たち自身であり、火葬の後に残る骨も私たち自身です。
さらに言えば、臓器移植した自分の内臓が生きていれば、生きていることになりますし、子どもがいれば遺伝子は引き継がれます。

そう考えると、わたしたちの身体の一部が、この世界から消滅するまで、私たちは死を迎えることができないのかもしれません。
限りある肉体ですら、私たちは長い間消えることがないのです。
恐竜たちの化石のように、何千年、何万年も生き続けることもあるかもしれません。

長い間、この世界から私たちは消えることがありません。
でも、私たちは死を恐れています。

つまり、私たちが本当に恐れているのは、自分の肉体が消えて無くなることではありません。
わたしたちが本当に恐れているのは、自分という人間が消えることではないでしょうか。


二度と目覚めない恐怖

自分とは、つまり自分の意識のこと。
意識を消失した後、再び目覚める可能性が分かっていれば、私たちはそこに恐怖を覚えません。しかし、肉体が死ねば、意識を消失し、二度と目覚めることはありません。死につつある中で意識を失うことは、自分という人間がこの世界から消える瞬間であることを意味しています。
それが、死の瞬間に対する私たちの恐怖の理由だと私は思います。

もし、肉体が死んだ後、同じ肉体で生き返るチャンスがあったとします。しかし、生き返った体には、あなたの人格や記憶は無く、全く別の人格が宿ります。その場合、あなたはもう一度生き返りたいと思いますか?

記憶喪失ならまだしも、まったく別の人格が自分の身体を生きるとしたら、蘇りを熱望するでしょうか。

私はNOです。
どんな人格が自分のカラダに入るかも分からない上に、残された家族には辛い思いをさせることが明確です。身体だけ生き返っても何も嬉しくありません。

では、逆に、肉体が死んだ後、あなたの人格は無くならず、動くぬいぐるみとして生き返ることができるならどうでしょうか。

私なら生き返りも選択肢に含めてもいいかなと思ってしまいます。
さらには予め、死後、ぬいぐるみに変わることが分かっていれば、死への恐怖感は軽減するでしょう。
「人間ではなくなるけど、次のぬいぐるみでもよろしくね」
なんて言いながら、笑顔で家族と別れることもあるかもしれません。


極端な例を出しましたが、このように考えてみると、わたしたちは死の瞬間に自分が失われる恐怖を抱いているのだと考えられます。この死による自己喪失の恐怖は一体、どうしたら軽減できるのでしょう。

それについてはまた次回、考えていきたいと思います。


今回も、読んでいただいてありがとうございました。




いいなと思ったら応援しよう!