死について考える⑤
前回の記事では、肉体的な死について考えました。
そして、肉体の死は曖昧で、かつ、この世界から私たちのカラダが消滅するまでは多くの年月がかかることが分かりました。
わたしたちが恐れる「死」とは、自分の身体=肉体の消失に対する恐れよりも、死による自己の喪失への恐れなのではないか、と結論づけました。
・死とは自分自身が消える恐怖
わたしという存在が消え、わたしは何もできなくなる。
消えてしまう日を目前にすれば、
もっとこうしておけばよかった、あのときこうしておけばよかったと、
人生を後悔で振り返るかもしれません。
元気なときには気づかなかった沢山のことに目が留まり、いくつもの欲が生まれるかもしれません。失われていく自分の世界に、どうしても執着が生まれていきます。
もっと生きたい。
まだ死にたくない。
人生への執着が強ければ強いほど、
私たちは苦しみの渦に取り込まれてしまうかもしれません。
この苦しみから抜け出すには、
私たちは、どうしたらいいのでしょう。
一番の解決法。
それは、
執着を捨てることです。
・執着を捨てる
執着を捨てるとは、どういうことか。
それは自分の人生に執着しないという意味です。
自分の人生に執着しないと言われても、ピンとこないかもしれません。
自分の人生に対する<あらゆる欲>を手放す。
それが執着を捨てることに繋がります。
ですが、私たちは、人それぞれ大切にしているものがあり、譲れないものがあります。そして、叶えたい夢や目標もたくさんあります。
あらゆる欲を積みながら、私たちは人生を重ねてきました。
あれがしたい、これがしたい、こんな人生を送りたい。
そういう欲があるからこそわたしたちは成長し、生き続けてきました。
しかし、この欲が死の直前には、重たい足枷になることがあります。
やり残したことが多ければ多いほど、後悔になったり、
自分の人生を悲観的に思うきっかけになることもあります。
「もっと、良い人生を送ってくればよかった」
「もっとやりたいことがいっぱいあったのに、なんで死ななければならないのか」
「自分の稼いだ金が誰かの手に渡るなんて許せない」
「家族を残して死ぬなんて。自分がいなくなったときのことを考えると不安で苦しい」
このように、残された日々が少ないと分かった時、私たちはたくさんの不安や後悔で胸がいっぱいになります。
そして、それは死に対する恐怖に変わっていきます。
だからといって、
執着を捨てることは、そう簡単にできることではありません。
では、どうするのか。
それは、すべての執着は『次に持ち越す』です。
・執着は次に持ち越す
これから死ぬのに、次に持ち越すとはどういうことなのか。
死の間際に抱える後悔や欲、または、自己喪失への恐怖を全て無くしなさいと言っても、それは難しいことだと思います。
例えば、
「全身全霊、全力で自分のしたいことをやってきました。何も後悔などない人生です!」
と、言える人なら執着なく人生を終えられるでしょう。
でも、
「人生すべてやりきった!100点満点!です!心配も不安も何もありません!」
と胸張って言える人は、どれだけいるでしょうか。
そういった人生を送れたら一番いいと思いますが、なかなか難しいと私は思います。
私がもし明日死ぬことになれば、家族の心配をしながら死ぬことになります。もっとお金を残してあげれば良かったとか、もっと家族と思い出をたくさん作ってあげたかったとか、あれやこれやと後悔が沢山でてきます。
こうしてあげたかった
こうしたかった
という私の欲は、死の間際にはもう叶うことができないことです。
それが周りに対しての申し訳なさや、自分自身への虚しさ・腹立たしさなどが、また死への苦しみに重なります。
そんな時に、誰かから
「もうその願いは叶えることができないのだから、その執着は捨てていいのですよ」
と言われたら、どうでしょうか。
もしかしたら、この言葉で楽になる人もいるかもしれません。
でも、私なら
「そうだとしても、自分がもっと頑張っていればよかったのに…それをしなかったから、申し訳ない、自分が情けない」
と、さらなる後悔に繋がります。
だから、私は
抱えた執着を次に持ち越すことにしたのです。
・執着を次に持ち越すために
(宗教ぽく話が進んできていますが、そういうものではないのでご安心ください)
執着を次に持ち越すためには、輪廻転生を前提に考える必要があります。
輪廻転生が存在しているのか否かは一旦置いておきます。信じている宗教などにもよるかもしれません。
ですが、輪廻転生つまり生まれ変わりがあるという考え方を持つと、死(=自己の喪失)への恐怖は和らぐと私は思います。
(ちなみに私は、輪廻転生を信じているわけではないですが、人は死後、次のステージ(ここではないどこか)に移行すると思っています)
執着を次に持ち越すとは、
次の機会(次の人生)に持ち越すということです。
たとえば、
次に、また人間に生まれ変わったら、
今回やり残したことや、出来なかったことにチャレンジしよう!
という考え方です。
とてもシンプルです。
分かりやすく説明すると、
死に瀕したとき、今の家族が大好きで離れたくないと悲しんでいたとしたら、それは今の人生への執着になります。
仏教では今生に執着があると、極楽浄土からの迎えがこないという教えもあります。また、後悔や執着といった想いが強いと、死んだ後、魂がこの世にさまよい続けるという話もありますね。
でも、家族への愛や心配などは、どうしても持ち合わせてしまうでしょう。それを執着と言われると、捨てることは大変な修行になるでしょう。
しかし死は、突然訪れます。
もし、小さな子どもがいる母親が、突然、死を目前にしたとき、子どもの事を心配していたら成仏できないから執着を捨てなさい!と言われたとしても、それは無理な話です。
だから、そんな時は、執着を次に持ち越すのです。
「次の世界でもまた、家族になって今回以上に楽しい思い出いっぱい作ろう」
「今回の世界では、先に死んでしまうから寂しい思いをさせてしまうから、次の世界ではもっともっと甘えさせてあげよう」
といったように、今の人生への後悔や不安を、来世への希望に変えて、次に持ち越します。
次の世界があるわけない、そんな夢みたいな話あるわけない
と思う方もいるでしょう。
そこは、信じる信じないの問題ではあります。
ですが、こういった考えをすると、
「死」はすべての終わりではなく、
長い長い旅の一つの通過点であることに気づきます。
・死はひとつの旅の終わり
わたしたちが今回の人生で経験する「死」は、長い旅の途中の通過点に過ぎません。それは、ひとつの旅の終わりを意味します。ひとつの旅が一区切りしたのです。
しかし、旅は終わりません。
今回の旅で経験したことは、新たな旅立ちへの道しるべになっていきます。
そして、今回の人生で得た経験があるからこそ、次の人生はもっとよりい良いものになるのです。
もし、今回の人生が病気がちで、いつも大変な思いをしていたのなら、「もっと健康な体で生まれたかった」と思うでしょう。
けれど、それは今回の人生は病弱な身体で生まれたから得ることができた学び、とも言えます。ですから、
「次の人生では、風邪一つひかない強靭な肉体を手に入れるぞー!」
と、前向きな気持ちで、今回の人生で叶えられなかったことを次の人生に持ち越してください。
そうすると、きっと人生の<終わり>が新たな<始まり>に思えてきます。
自分の人生を悲観しながら生を終えるのではなく、
次の人生への希望をもちながら、
人生を終えることができたら、死への恐怖が和らぐと思いませんか。
死は恐れなくてもいい
死は、自己の喪失ではなく、今回の人生旅の終着点です。
そして、その終着点は単なる通過駅で、私たちの長い長い旅の終点ではありません。自分が終わりを決めなければ、旅は終わることがありません。
私たちを乗せた列車は、自分で降りなければ、永遠に走り続けます。
次も旅を続けよう、そう思っていればきっと、列車は走りだしてくれるはずです。
あなたは、今回、どんな旅をしましたか?
それは、過酷な旅でしたか?
それとも、幸せな旅でしたか?
次の旅ではどんなことをしたいですか?
理想の旅があれば、それにチャレンジするのもいいですね。
私たちの旅は、永遠に続きます。
だから、死は、恐れない。
後悔や不安は、次の旅の目標に変えて、
まずは今の旅を楽しんで。
そして、次の旅も、楽しみにしていきましょう。
皆さんの旅がいいものになりますように。
読んでいただきありがとうございました。
(死について考えるシリーズは、一旦ここで終わりにしたいと思います。
まだまだ、死についてシリーズは書きたいことがあるので期間は開いてしまうかもしれませんが、少しずつ続けて行こうと思います。読んでいただき、ありがとうございました)
追記:
生への執着は、生きる力になることも多いです。
生への執着が苦しみになったときには、執着を持ち越すという考え方もあるということです。