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死ってなんだろう① 

看護師になって以降、人の「死」に触れる機会が増え、「死」ってなんだろうと考えるようになりました。
終活の資格を取得したり、「幸せに人生を終えた人から学んだこと」という著書も昨年末出版させていただき、「死」について考える機会が増えています。
ですが、「死」について考えれば考えるほど、私の中で答えは定まりません。そこで、今回から自分の考えをまとめるために「死ってなんだろう」シリーズを書いていくことにしました。
重いテーマかとは思いますが、お付き合い頂けたら幸いです。



はじめに

生物は永遠の命が与えられておらず、人間にも必ず「死」が訪れます。
生と死は切っても切り離せない関係です。限りある命ということは分かっています。でも、私達は、この命がいつまでも続くような気で生きています。人生100年時代と言われていますが、だれしも100歳まで生きる訳ではありません。今、この記事を読んでいる数秒後に天に召されるかもしれないし、その先80年生きながらえるかもしれません。

「死」とは不明瞭で不確かな確約といえます。



死ぬってどういうことですか?
という質問をされたら、どう答えるでしょう。


死とは、身体的な死、いわゆる細胞が機能しない状態のことでしょうか。
それとも、脳死、意識が戻らない状態のことでしょうか。
もしくは、精神的な死、魂の死…この世からの旅立ち…
など、いろいろな答えが出てくると思います。

何をもって「人は死ぬ」ぬとされるのでしょうか。

私は、正直、よくわかりません。


分かりやすい例えでいうと、
死んだ時に発行される死亡診断書でしょうか。
死亡診断書の死亡時刻をもって「死」となるのでしょうか。

しかし、死亡診断書上で死んだとされる死亡時刻に、その人の存在がこの世界から消滅したわけではありません。
死亡時刻を過ぎても、現実に肉体は存在しています。
その肉体の中の、その人自身=精神は消えたのでしょうか。
意識の消失が消えたというのなら、脳死も同じでしょうか。
肉体と精神の死をもって、死とするのでしょうか。
しかし、人々の魂というものがあれば、魂が消えないかぎり人は死ぬことがありません。


では、その人という存在は、いつ死ぬのでしょうか。

そんな見えない答えが私の「死」への印象です。「死」が何なのか私は分かりません。でも、私にも「死」は必ず訪れます。必ず訪れるのに、それが何なのか分からないまま死ぬのは、私は嫌だと思います。
分からないからこと、人は死を恐れます。
分かっていることもあります。それは、自分の人生が終わるということ。
自分の人生を失う事は、死を恐れる原因なのでしょうか。
死は苦しくて、痛いものかもしれない。だから怖いのでしょうか。
死へ向かうということは、どういうことなのでしょう、
わたしたちは、死んだらどうなるのでしょう。

何になるのでしょう。

答えは、わかりません。

私の頭の中では、こんな風に
「死ってなんだろう」という疑問が消えません。

これは、死を求めるというものではありません。
死の正体を知りたいという単純な動機です。

そんな疑問から、自分なりに死を知るための記事を書くことにしました。

まずはじめに、今回はシリーズ1回目として
<看護師としての「死」との関わり>から、「死」を考えていきたいと思います。


看護師としての「死」との関わり

看護師という職業についてから、死について考える機会が増えました。ことさら、医師や看護師という職業は、人が死ぬ瞬間に立ち会うことが多く、「死」そのものに慣れてしまいやすい環境にあるのかもしれません。
私自身も、医療に携わる前と比べれば、死に対して慣れが生まれているのかもしれません。しかし、だからこそ、死をより身近に感じ、考えることが多くなったのです。


看護師になってから初めての死

看護師になるまで、私は身内の死を経験していましたが、人の死の瞬間に立ち会ったことはありませんでした。
私が初めて人の死に立ち会ったのは、新人看護師の頃。看護師になって1ヶ月くらい経ってからでした。

その日、朝から私はその患者さんを受け持っていました。新人ですから、重症の患者さんを看るのは初めてで、先輩と一緒にケアをすることになりました。重症といっても、見た目ですぐに亡くなるというのは分かりません。新人の私には、その判断もつきません。夜勤の看護師からは、明け方から血圧は低く、ほとんど眠っている状態だと申し送りを受けていました。しかし、酸素を使用しているわけでも、昇圧剤を使っているわけでもなく、私はこの日にこの患者さんがすぐ亡くなると思っていませんでした。目の前の患者さんは、苦しい表情もせず、ただただ眠り姫のように、静かに穏やかに目を閉じているに見えていました。

昼過ぎ頃、ナースセンターの心電図モニターがなりました。

「心拍がさがってる!」

先輩が大きな声で私に伝えました。私は驚いて、先輩と共に走って病室に駆ていきました。同時に、先にモニターを観ていた他の看護師もベッドの周りに集まります。「バイタル計って!」先輩に促され、血圧を測り始めました。血圧計はエラー表示になり、その後何度計っても血圧は計ることができません。血圧はすでに測れないほど低くなっていました。「脈もほとんど触れないから」と先輩は、いいました。脈が測れないということは、心拍がどんどん弱まっているということ。脈が止まれば死んでしまうという事実に、私は血の気がどんどん引いていきました。新人の私は、何をしていいのか分からず、先輩の指示を行うだけで手一杯な中、周りの先輩看護師たちは、てきぱきと動き、ドクターに報告したり、家族に連絡をしてくれました。私は、そんな中で、自分の目の前で患者さんが死んでいくのに、頭が真っ白になり、死に瀕している患者さん自身のことを考える余裕もありませんでした。

そのあとも、時間は急激に流れて行きました。家族との関わりも、何と声をかけていいのか分からず、何もできない自分に情けなさを感じていました。看護学生の時には、家族を亡くした方へのグリーフケアについて学ぶ機会もありました。しかし、新人の私が、机上の学びを実践する勇気もなく、ただその場に立って居ることしかできませんでした。


亡くなった患者さんが家族と家に帰られたあと、先輩から「大丈夫?」と声をかけられました。
私は「大丈夫です」と応えました。でも、何が大丈夫だったのか分かりません。取り乱すことはなく、思考を停止し仕事を続けることはできましたが、「大丈夫です」と応えた自分に対して、人として大切な何かが失われた気持ちになりました。


死に対する感情をコントロールする

新人看護師たちの多くは、初めて死に直面したとき、ショックを受けます。

人が目の前で亡くなる経験は、普通に生活していれば、ほとんどないことです。家族の死に立ち会えることも、現代では稀かもしれません。

ですから、私のように看護師になって、初めて人の死と直面する人も多いです。特に若い看護師になると、家族を亡くした経験もない場合もあります。
初めて人の死に触れ、感情が溢れ涙が止まらなくなってしまう新人看護師もいます。

しかし、経験を重ねるにつれ、私たちは感情をコントロールできるようになります。これは、言わば職業訓練に近いのかもしれません。死に対して、心を乱されにくくなります。

ですが、私たちは心を無くして仕事をするわけにはいきません。私達看護師は、患者さんと接するとき、自分の家族だったらどうして欲しいかということを念頭に考えて仕事をします。しかし、家族のように思っても、患者さんと自分の家族を重ねてしまってはいけないのです。

なぜなら、家族と重ねてしまうと感情のコントロールができなくなります。
家族のように大切な人の死を毎日のように経験していたら、人は心が壊れてしまうでしょう。

ですから、私たちは自分自身を守るためにも、患者さんとの関係に一線を引くようになります。どんなに大切に思う患者さんにも、感情をコントロールするために一定の距離を保たなければならないのです。



特別な患者さん

「◯◯さん、元気?疲れた顔してるね、ちゃんと食べてる?」

こんな風にいつも看護師に声をかけてくれる患者さんがいます。春山さん(仮名)は何度も入退院を繰り返す高齢の患者さんです。下血が酷く、貧血も進み、顔面蒼白で、歩くときはふらふらして、何本も点滴をしている。そんな状態になっても、すれ違えばいつも笑顔で明るく声をかけてくれる方です。

入院することは、春山さんにとってはマイナスなことです。
ですが、私は春山さんの顔を見ると、なぜか安心してしまいます。

私が新人の頃から何度も入退院を繰り返している春山さんに対して、私は親戚のような感覚を抱いているのかもしれません。春山さんは、ずっと元気でいて欲しいな。そう思っています。だから、春山さんが亡くなることは想像したくありません。

ですが、もし実際に私が春山さんを看取ることになれば、私は哀しい感情は見えない場所に隠します。家族が亡くなったとき、悲しみや寂しさといった感情の主役はご家族です。家族の感情に寄り添うためにも、看護師は死に心を乱されてはならない。そんな思いもあります。
冷静な姿勢は、はたからみれば死に慣れてるように見えるのかもしれません。けれども、私たちは一人一人の死に対して、淡々と機械的に仕事をしているわけではなく様々な感情をコントロールしながらも、真剣に向き合っていることを知っていただけたらと思います。





1人ひとりの死を大切に


死という人生の最終地点への着地が、いかに穏やかなものになるか。
その人らしい人生を最期まで送ってもらうために、何が必要か。
そのために、患者さんに何をすべきなのかを、私達は常に考えケアをしています。

病院では医師や看護師、理学療法士、言語聴覚士、作業療法士、薬剤師、栄養士等など…たくさんの人が、患者さんの最期に向けて関わっていきます。
それぞれが、本人や家族に関わったすべての話を共有して、何を本人が望んでいるのか、そのらためにすべき治療が何かを話し合います。

医療スタッフは、患者さん1人1人の死への過程を真剣に話し合っていきます。

たとえ、本人が話をできる状態でなくても、意思疎通が出来ていたときのわずかな情報や、家族の話などを聞いて、こういう想いが本人にあったのではないかと、あーでもない、こーでもないと、何度も話し合いをします。

こういった話し合いをしている事は、本人や家族は実は知らないのかもしれません。
たくさん人が、1人の方の死へ向かう未来について、時間を注ぐのです。

この人にとって一番良いことをしよう。
辛くないように、苦しくないように。
少しでも幸せを感じられるように。
この人らしい時間を過ごせるように。

そういう想いで、私たちは看護をします。

ですから、私達はたくさんの死に対面しますが、それを機械的に業務としてこなすのではなく、1人ひとりの患者さんの死に対して、色々な思いや感情をたくさん抱えています。

患者さんの望む日が送れたかどうか、自問自答します。
もっと、こうしたら良かったんじゃないか、本当はこんな気持ちだったんじゃないか。自分たちが行ったケアに対しての振り返りを常にします。

ですから、患者さんが亡くなられたら、患者さんとの関わりがそこで終わるわけではありません。

患者さんの死への関わりに対して、みなで話し合い語り合う時間を設けることもあります。
そして、患者さんへの想いや、その患者さんを通して教えてもらったことを伝え合うことで、その経験を、また次の患者さんに繋げていくのです。



闘いの終わりを労う


私達は、常に同じ患者さんを毎日担当しているわけではなく(病院のシステムによる)気にかけていた患者さんが自分の担当でないときに亡くなることもあります。

そんなときは、看護師は自分がその日、他の仕事をしてたとしても、
どんなに忙しくても、顔だけでも見させて欲しいと、急いで抜け出し、最後の挨拶を数秒だけでもさせてもらうことがあります。

そして
「〇〇さん、がんばったね」
とねぎらいの言葉をかけることがあります。

この言葉は、闘病中には、なかなかできない声掛けかもしれません。
本人がどれだけ頑張ってきたかを、側で見てきた看護師は知っています。

病の中、必死に生きようと頑張っている最中に、「がんばったね」と、声をかけることは
(充分がんばったね、もう頑張らないでいいよ)と、本人の気持ちに反してゴールテープを切らせようとしてるようで、言葉にし辛いのです。

だから、最期の最後、
本当に最後のときにだけ、

「がんばったね」と、

やっと、労いの言葉を伝えることができると、私は思っています。


ですから、闘病を終えた患者さんの最期の姿は、私たちにとっては、悲しいだけの姿ではなく、最期の最後まで頑張った「勇姿」に見えているのかもしれません。

人生の最期まで生きようと戦う姿は、勇ましい戦士そのものだと私は思っています。




何をもって「死」なのか


患者さんが死に近づくと、私たちはご家族に連絡をします。病院に来ていただき、最期のお別れをしていただくためです。

最期のお別れ=臨終の場の立ち合いになります。

一般的に臨終の場というのは、恐らく、
呼吸停止や心拍が停止するまでの時間を指すのかもしれません。

ですが、
呼吸が止まった・心臓が止まった瞬間をもって「死」とはならないのです。



死亡診断書の死亡時刻

呼吸停止・心拍停止・対光反射の消失が死の三大兆候と言われています。
医師の最期の診察=死亡確認では、その三大兆候を医師が確認します。

医師からご家族に、
「心臓の動き、呼吸も止まっています。光の反射もありませんでした。以上の点から死亡確認とさせていただきます」
というような説明があり、そして、医師がその場で時計を見て
「ただいまの時刻、〇時〇〇分。死亡時刻とさせていだきます」と伝えます。
そして、その時刻が死亡時刻になります。

役所に提出する死亡診断書に記入される死亡時刻も、その医師が時計を確認した時刻になります。



ここで、ひとつの疑問が生まれます。

いったい、何をもって私たちは、死んだとされるのでしょうか。

死亡確認を医師がする前に、すでに死の三大兆候が見られていても、それまでは世間的には生存しているということになります。

医師が死亡確認を行うと「死亡」という状態になってしまうので、医師の確認前に心拍や呼吸が停止していても、「家族が揃うまで待ってください」「長男が来てからにしてください」などという家族の希望があれば、その時まで死亡確認を行わないケースは、よくあります。



つまり、死亡時刻は、亡くなった本人の状態に関係なく定められるということです。

では、何をもって私達は、「死」という状態になるのでしょう。

私は看護師になるまで、死亡時刻は死んだ時刻だと思っていました。ですが、実際は誤差があるのだと知りました。

ですが、死亡時刻の誤差は、大きな問題ではありません。家族が会えない間に、死亡しましたとされるよりも、家族が揃ってから、死亡宣告をされる方が、残される側としては良いのだと思います。

死亡時刻が重要視されるのは、事件性がある場合のみかもしれません。
生まれた時刻のように、死亡時刻で占いをする必要もありませんから、いつの時点が明確な死とするのか答えがないのかもしれません。


肉体的な死と魂

死亡時刻をもって死亡と診断されますが私達医療者は、

「耳はまだ聞こえていますから、声をかけてあげてください」

と声を掛けることがあります。

死んでいるのに、耳は聞こえる…?
死んだ後でも聞こえたことを理解できるの?
そもそも、耳は機能してるのに、死亡したことにしちゃうの?

と、色々な疑問が湧き出てくるかもしれません。

しかし、これまで死亡確認の場で、
そのような質問をされる家族はいませんでした。みなさん、疑問に思っても口に出されないか、疑うことなく瞬時に理解してくださってるのだと思います。

なぜ、この矛盾を受け入れるのか。そこには、

死んでいるけど、まだそこに本人は存在はしている

といった感覚があるからだと、私は考えます。



存在=魂=本人はまだいる
死んでも体の中で生きているから伝わる

そう感じるのではないでしょうか。


お国柄にもよるかもしれませんが、肉体的な死の後は、主体が魂(精神や意識)に移行すると私達は認識しているのです。

つまり、
肉体的な死を迎えても=そこですべてが消える・終わるわけではないんだと残された側は認識しています。

もし、
肉体的な死を迎えたら、全てが終わりの世の中なら、
死者を丁寧に扱い、弔うことはないかもしれません。

存在や魂が生き続けることを
私達は無意識のうちに受け入れているのです。


だから、死後も耳が聞こえると言う話を素直に受け入れることが出来るのかもしれません。

また、死に目に間に合わなかった場合には、耳が生きているということが、一種の救いになることもあります。

いつまで耳は生きているのか明確な答えは分かりません。
でも、その不明確さが、残された者の声を、本人が旅立つまで届けてくれる。そんな気がしています。






今回は、看護師から見た死について考えてみました。
しかし、まだまだ死については謎だらけ。

次回は、「なぜ死を怖いと思うのか」について考えていきたいと思います。



読んでいただきありがとうございました。


最後に宣伝になります。

昨年発売した著書は、病院で出会った幸せな人生を終えた人たちのエピソードを書いています。死を迎えても、生き様は私に影響を与えてくれ、一冊の本なり、本の中で彼らは生き続け、私たちに幸せを与えてくれています。

「死とは、何なのか。」
これからも真剣に考えていきたいと思います。

ご興味あれば、お手に取っていただけたら幸いです。








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