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愛しい脆さ


猫がいていつもの朝にせみの声


イギリスの難民対策への非難の声が高まっています。他国のことだから関係ない、難民のことはよく分からない、まわりの反応のほとんどがこんな感じです。

まさか自分が難民になる筈はないだろうし、ずっと今の生活が続くと信じています。でもそれって本当かしら。

1967年、難民議定書において、「難民」は、人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の社会集団に属するという理由により、自国にいると迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れ、国際的保護を必要とする人々と定義がされています。

この定義から鑑みると、自分がそう簡単には難民になるとは思えません。いろんな難癖をつけて虐められることはあっても、この国を追われるほどの迫害に遭うなんて想像もできません。

ただ、ぼんやりとですが、たとえ自国を追われることになっても、親切な国が優しく受け入れてくれると信じていました。

でも、オーストラリアもイギリスも、海から不法に自国に入ってくる難民の入国を認めることなく、契約をしている他国に強制収容をしているという実態を知ると怖くなります。

海を渡るボートはいつ転覆するか分からず、危険と不安の隣り合わせです。でも、一緒に海を渡る家族や仲間がいて、そこには微かな希望もあります。

ところが収容されるとその微かな希望すらも無くなります。先の見えない不安は人の心を壊してしまいます。

遠くにぼんやり見える微かな光でも、将来に希望の光が見えるから人は人間として生きていけるのです。

今年も自然の猛威によって、たくさんの人が家族を失い、家や財産を失い、将来や未来の夢を失っています。

支援や復興、再建という言葉が聞かれ、一生懸命に以前の生活を取り戻す努力がなされています。

でも、いまだに仮設住宅の生活を続けている人もたくさんいます。報道がされなくなって忘れられた人がたくさんいます。

見えない、聞こえないことには人は無関心になりがちです。声をあげないと誰も気づいてくれません。

理不尽な戦争を仕掛けられた国も声をあげています。元首相を襲撃するという手段を取ることで声をあげた人もいます。

でも強制収容されている難民は、声をあげる手段も気力も失っています。

世界が理不尽、不条理に飲み込まれてしまわないことを願うのみです。

いつまでも声を上げ続ける自分でいることを願うのみです。

それにしても人間って本当に脆いです。夢や希望なんて、最初から目には見えないもの、実際には掴めないものなのに、そんなものが無いと自分らしく生きられないようです。

たまに人が無性に愛しく感じるのは、だからなのかもしれません。


「夏の空たかいたかいの母の腕」


素敵な構図を見つけたので、自分流に描いてみたのですが、ほぼ失敗作(((((゜゜;)

薄目でスルーしてくださいね!