わたしで生きる(寒い日は、事故の記憶と向き合う日)
寒くなってコートを羽織りたくなる時期は、後悔している自分の後ろ姿にすがりつきたくなる。
もう15年以上も前のことなのに、発進させた車のバックミラーに映った彼女の表情のディテールまで見えそうだ。
実際は、彼女の顔なんて覚えてもいないし、すべてが自分の想像が作り出す偽影と分かっている。ただ、バックミラーに映った直後に彼女が死んだことだけは本当だ。
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狭い国道の信号に引っ掛かった花留さんは、最前列に車を停めた。県の中では人口が2番目に多い市だが、所詮は高齢者の占める割合全国上位が常連の地方の県。その中の2番目なんて、たかがしれている。
せっかくの日曜日。とりあえず、人口が1番集中する県庁所在地にある美容室へ車を走らせる。
花留さんは、2年前から2番目に人口の多い中村市にある診療所に単身赴任中で、今日は有給を消化して美容室でストレートパーマを当てる予定だった。
もちろん診療所の近くの美容室でストレートパーマを当てることはできる。やったことがあるから知っている。ただ、あっという間に髪の毛がスコスコになってしまった。
薬剤の質がひどすぎや~
だから、片道100kmの道のりを車を飛ばし、いざ美容室へ馳せ参じていた。ガソリン代も時間も無駄なことは重々自覚をしていたが、花留さんには「美しくあること」はとっても重要なことだった。
単なる見栄っ張りだけど(笑)。
その国道は道幅が狭くて、その国道にへばりつくように人家が建ち並んでいた。玄関から出るとすぐに国道という危険な場所で、運転する時はいつも緊張した。
その日も、いつものように、緊張感を持って運転していた花留さんは、信号が赤から青に変わったことを確認して、ブレーキに置いていた足をアクセルに移した。ゆっくりと車が発進した。
その時、バックミラーの右端から左に向けて何かが動いた。
「うそやろー!」
花留さんの軽自動車の後ろには、ピッタリとくっついてダンプカーが停車していた。そのわずかな隙間を、自転車を押した女性が突っ切ろうとしていた。
自転車が押し潰される音、激しく鳴らされたクラクション、そして急ブレーキの音。
状況は見えなくても、想像もしてなかった、最低最悪の事態が起きたことは、容易に理解された。急いで安全な場所に車を停車させた花留さんは、走った。
何故か、既にその女性は亡くなったと確信をしていた。ただ、その女性をひとりにしたくない。ダンプカーの運転手を守りたいという思いがあった。
走っていくと、顔面蒼白の運転手が立ちすくんでいた。ダンプカーの下には捲き込まれた女性が仰向けに横たわっていた。
スピードは無かったが、でかいダンプカーが載ったことで内臓が腹から出ていた。出血はほとんど見られなかった。
綺麗な顔立ちをした中年の女性は、死ぬ前の人に見られる、ゴロゴロとうがいをする様な死戦期呼吸と呼ばれる呼吸をしていた。
「お花の先生の○○さんや」
事故の音を聞き付けて、近所に住む人が大勢集まってきていた。その中のひとりが彼女の名前を知っていた。
「○○さん、大丈夫だからね」と、声を掛けながら花留さんは119番に電話した。大丈夫でないことは分かっていた。
あれは自分に向けての声かけだったのかな?それとも運転手の若い男性に向けて?近所の人たちに向けて?
本当なら救命処置を行うべきだった。
花留さんは救命処置の訓練を受けていたし、インストラクターとして指導もしていた。
でも、ダンプカーが動かせなかった。運転をしていた男性は、心神喪失状態で意思疎通が取れない。素人が下手に動かそうもんなら、女性をさらに傷つけそうだ。
救急隊が到着するのを待つしかなかった。
寒かった。路面から冷たさが伝わってきた。女性は既に息をしてなかった。さっきまで、血の気を感じられた腸(はらわた)がどす黒くうなだれていた。
何だか、自分の大切な臓器を人の目に晒して横たわる彼女が可哀想に思えた。何か掛けてやるモノはないかな?
花留さんは車内に置いてきたダウンコートのことを思い出した。あれを取ってきて掛けてやろうか、でも、、。
その真っ白なダウンコートは買ったばかりの新品で、今日初めて着たものだった。汚れてしまうことを躊躇した。それに、もう寒さを感じていないことを知っていた。
今は自分が彼女のそばにいることで、周囲の人たちが落ち着いていられることも分かっていた。全部、自分を守る言い訳だと、やはり分かっていた。
ただ、臓器を晒して横たわる、彼女の尊厳を侮辱したような、そんな気持ちがいつまでも残った。むごいことをした。
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救急隊がやってきた。少し遅れて警察官らも駆けつけた。
花留さんは、自分が見たことを全て話した。「あの状況では、車高の高いダンプカーから女性は見えなかったと思う」と付け足した。
事実、人が死んでいるのだから、事故は不可抗力だったとは言えないかもしれない。それでも、言わずにいられなかった。
もしかしたら、彼女にコートをかけてやれなかったことも不可抗力だ、と思いたかったのかもしれない。
その事故に遭遇してから、車内に掛けものやシートを載せるようになった。まだそれらを使ったことはない。でも、今度は躊躇なんかせずに、行動できる自分でありたい。