わたしで生きる(大丈夫!苦悩を感じるのは生きている証)
モルヒネを使うことで、癌患者さんも以前のような悶え苦しむようなことは減ってきたと思う。
これはモルヒネの効果だけではなく、医師のコミュニケーション能力が向上して、苦痛のある患者さんに寄り添って思いを聴くことができるようになってきたから、と花留さんは勝手に分析している。
つまり、もしコミュニケーション能力が低い医者が担当医になったら、悲しいかな、その患者さんは癌による心身の苦痛のみならず、医者との人間関係のストレスという苦悩とも戦わなくてはならなくなる。
実際、緩和ケア病棟に勤めていた花留さん、コミュ力の低い医者が赴任してきたときには看護師たちは往生したもんだ。
ところが、コミュ力が低い医者に患者さんが慣れてくると、変なことが起きた。
ひょっとしたら、花留さんの病院のケースがレアかもしれないが、その医者にストレスを感じることで"生きている"実感が持てる、という患者さんがいたのだ。
彼女の云うには、癌になって、患者になったことで、家族や医者、看護師の医療スタッフには本当に良くしてもらっている。少しでも痛みがないように、苦しまないようにと。
でも、痛みがない、苦しくないことは嬉しいことだけれど、何か刺激がなくて生きている実感がない。
痛くない、苦しくない。でも、病気になって家のこともできない、仕事もできない。何か感情がどんどん冷えていって、心が不感症になったみたいと云うのだった。
そうなんだよなあ~。確かに、痛いとか苦しいとかは嫌だけれど、それがあるから自分は生きてる!と感じることができるんだ。
・・・
花留さんはスペインで頸椎を折ってしまい、スペインのサラマンカの病院で手術をした。
もう30年以上も前のことだ。日本とは文化も違うし、保険制度とかも違うし、とにかく、病院の文化も雰囲気も日本とは別物だった。
寝たきり状態の花留さんは、床上排泄をする羽目に陥っていたが、ナースコールを押すが看護師はすぐにはやってこない。
早くても1時間は掛かることに、花留さんは3度目あたりでやっと気づいた。やっとこさ来ても、遅れたことを謝罪する訳でもなく、ひたすらマイペースな看護師たちだった。
花留さんは朝、目が覚めると大急ぎでナースコールを押した。くだらないが、看護師たちとのガチンコ勝負や!とばかりに張り切っていたことを覚えている。
まさにオシッコを我慢するという、身体的な苦痛が「首は折れたけど、私は生きてる!」と思わせてくれて、逆に生き生きしていた。
死んでしまっていたら、こんなアホみたいなことでイライラしたり、悶え苦しんだりすることもできなかった。
自力で起き上がれるようになるのだろうか、歩けるようなるのだろうか、ちゃんと日本に帰ることはできるのだろうか。
先の見通しはなかったけれど、とりあえず、首の手術をして、首を固定するコルセットをつけて、さっさと病院とおさらばしよう!とそんなことばかり考えていた。
生きること、そしてトイレを失敗して日本の恥にならないようにする、それだけで精一杯だったなあ。
もしも、スペインの病院が至れり尽くせりで花留さんをもてなしてくれていたら、それはそれで良かったかもしれないが、ストレスが少ない分、つまらないことをグダグダ考え、違う意味でストレスが溜まって、きっと心が病んでいたに違いない。
・・・
緩和ケア病棟で、コミュ力が低い医者によるストレスに曝されながらも、逆に生きる力に変えていた彼女も癌には勝てず、徐々に弱り寝ている時間が増えた。
自力で動けなくなり、穏やかな顔で寝ている彼女の表情を見ながら、彼女がやっと生きる苦しみから解放された、と家族はホッとしているようだった。
確かに、痛みを我慢して食堂まで歩いたり、あとで疲れてぐったりするのに頻回に入浴を希望する姿を見ては、特にご両親は「無理をしなや」と声をかけていた。
健康な普通の人にとっては、当たり前で普通な日常の行動なのに、病気をすると"無理"な行動になってしまう。まるで生きることは、無理をすることみたいに聞こえた。
でも、もしかしたら、そうなのかもしれないと花留さんは思う。普段はあまりにも当たり前の行為なので気にもとめないけれど、実は生きて、活動できているってことは奇跡的なことかもしれない。だったら、多少なりとも無理はしてしまいそう。
寝ている時間が増えた彼女の表情には、以前よりも穏やかになったように見えた。でも、花留さんにはその穏やかさが寂しかった。
生き生きした生気が感じられないというか、人間らしい表情がなくなった気がした。
生きているって楽しいことばかりじゃなく、いろんなことと戦っているようなもんだと、花留さんは思っている。
息をするのもそうだ。花留さんは鼻炎で鼻がよく詰まる。狭い鼻腔から酸素を取り入れるのは結構大変だ。
それに立位にしても、ただ立っているようで実は重力に負けないように必死だ。
だから、眉間に皺を寄せて頑張っている顔、戦っている顔は人間らしい気がする。
でも、家族は看護師の花留さんが患者さんと出会うはるか前から、家族である患者さんと共に戦ってきていたんだし、どれだけ苦しみ悩んできたかも見てきている。
だから、そんな苦痛や苦悩から解放された、大切な家族の最期の表情が穏やかで、安らかであることは、残された家族にとって大切なことなんだ。
そう思ったら、何か分からないけれど、巧いことなってるなあ、生き死には。