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医者の企み
ビブラートきかす今宵のちちろ虫
「えっ、外国語が読めるの?」
カルテを腕の下に隠すようにして、主治医が聞くので、「少しは」と答えた。
今では癌も治る病気となり、否、たとえ治るのが困難な場合でも、患者さんの知る権利を尊重して告知が行われるようになった。
もちろん、わたしたちには知る権利と同時に知らずにいる権利もある。自分の病名を知りたくなければ、知る必要はない。
当時、わたしは自分のことを知りたかった。でも、まだ告知は一般的ではなく、こっそり家族が呼ばれて告知するのが普通だった。
しかし、たとえ本当の病名は分からずとも、手術後に処方された薬を調べたら分かる。
今みたいにネット検索できなくても、本屋で立ち読みすれば検討はつく。
さて、そうやって知った自分の病名。事実。知る前と知った後、何が違うんだろう。
納得、そして覚悟が持てたことが、なんにも知らないでいた時と違った気がする。
たとえ受け入れがたい病名でも、その病気も含めて自分は自分だ。自分のなかに、自分の知らない、ブラックボックスみたいな場所があるなんて我慢がならない。
社会人になって、フランス語やスペイン語をNHKの教育テレビ(今のEテレ)で学んでいた。まさか、カルテの覗き見の役に立つなんて、無駄なことは何もない。
それにしても、ふと考える。
あの病名は告知されていない。だから、当の本人は知らないことになっている。つまり、その病名はわたしのなかでは存在しない、ということだ。
だって、既往歴を聞かれても、事実とは違う病名を伝えている。
三度の再発。それで病気も暴れるのを止めたようだが、これって、嘘の病名を病気が受け入れたってことかしら。
病名、恐るべし。
いや、医者の企み、恐るべし。
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