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春ふくろ

「寒いですね」が挨拶代わりの今日この頃、でも、まだ水道が凍ってないので、本格的な冬はこれからなんでしょうか。

俳句を投稿し始めての変化は、閲覧数が減少してきたということです。でも、それは至極当然なことだと思います。

だって、わたしも俳句にハマるまで、俳句の投稿を見ようとしなかったから、お互い様ということでしょう。

でも、文語文法がちんぷんかんぷんは仕方がないとして、俳句も見慣れてくると、五七五というたった17音に、その人の想いが詰まっていて、文字になっていない背景を読み解くことは、小節を読むように楽しいのです。

特に、想像で詠んだ句ではなく、実体験から詠まれた句は面白い。あとは、文語文法さえもう少し理解できたら、面白みが倍増するでしょう。

ちなみに、俳句を始めて、よく寝れるようになりました。これまでも、思いや感情などを文字にすることで、心が安定し、整う感じがありました。

でも、五七五で思考すると、心の安定や整う感じのスピード感が違うんですね。

面白いもんだ。

ということで、本日も、今、気になっていることを五七五で詠んでみました。


老鶯や生産性はいまいづこ

(ろうおうや  せいさんせいは いまいづこ)

季語は「老鶯」です。

団塊の世代の人を「老鶯」と呼んで、作った一句です。ニュースでは、団塊の世代の人の社会保障費が増えるので大変と報道していますが、そんなことは、ずっと前から分かっていたことです。

そんな団塊の世代の人が、生産性とは対極の五七五の世界を愉しんでいる。それもよか!という気分の句です。

もちろん俳句に限らず、水彩画でも、詩でも何でも、五感を使うことに時間を費やすのは健全な気がします。

でも、ここで俳句の先輩より突っ込みあり。確かに、生産性を手放した今が豊かと思って詠んだ句ですが、どうも、「生産性を捨てて今はどうしてんねん!」と聞こえます。

生産性断ち老鶯の豊かかな
生産性断ち老鶯「よか」と鳴く

句またがりとなりましたが、生産性を断捨離することで、団塊の世代の老鶯も豊かになりました。「ホーホケキョ」ではなくて「よかよか」と鳴いてます(笑)。

「断ち」は断捨離の「断つ」や飛び立つの「立つ」の意味もかけたつもりです。

しかし、またもや俳句の先輩より突っ込みが入りました。

生産性捨てし老鶯風まかせ
生産性捨てし老鶯遊ぶ森

先輩の句、どちらも素敵ですが、紆余曲折を経て、たどり着いた一句がこれです。

老鶯や声艶めきて生き返り

なんか美しく着地しました。


反魂香焚くや冴へかへる今宵

(はんこんこう  たくや  さへかへる  こよい)

季語は「冴ゆ」です。

いっそう寒さが凍み入る今宵、焚くと死者の姿が煙の中に現れるという、そんな反魂香を焚いて、亡くなったあの人を浮かび上がらせてほしいものだ。そんな一句です。

さて、わたしはそんな香を焚いて、誰の魂と語りたいのでしょうか。

ちょっとオドロオドロしい一句ですが、たまたま読んでいた本のなかに「反魂香」を見つけました。

もしそんな香があるのなら、死んだ犬に会いたいです。事故後のリハビリをしていた時、わたしの相棒にと母がもらってきた犬です。

毎日、何時間も彼と歩き、看護学校に入り、看護師となりました。どうにか看護師として一人前になったと思った矢先、あっけなく、本当にあっけなく死んでしまいました。

もしも彼が人間だったら、絶対にお嫁さんにして欲しい、そんなイケてる犬でした。

ただ、彼がほんとうに幸せだったのか、それだけ、聞いてみたいです。

と、ここで、この句にアドバイスをいただきました。語順を変えるといいよ、と言うものです。

どうにか17音に納めて、ふ~、でした(笑)。でも、語順を変えるととてもいいです。

冴へかへる今宵に焚くは反魂香

わたしの句は、死んでしまった犬に会いたいですが、なんだか、女の情念を感じるような一句になりました。かっこいいです。


初明かりあそこら辺が浄土かな

(はつあかり  あそこらへんが  じょうどかな)

季語は「初明かり」です。

浄土とは、煩悩がなく、清らかな世界のことです。初明かりは元日の夜明け、ほのぼのとさしてくる太陽の光ですが、早朝、海岸線を工房に向かうわたしは、夜明けを見るたび、浄土を思い浮かべます。

工房に行き始めて、水平線の向こうから来る夜明けを見る機会が増えました。

それはとても幸せなことです。

でも、ここで俳句の先輩より突っ込みあり。なんと、浄土は西の方角にあるそうですね。そういえば、ガンダーラを目指した一行も、西に向かっていたかしら。

でもですね、バカボンのパパなら、「西から昇ったお日さまが東へ沈む~」でしたっけ、歌い飛ばしてくれそうです(苦笑)。

でも、とりあえず調べてみました。すると、どうやら「太陽が沈んでいく西の方向にお浄土がある」と、お釈迦さまは私たちに教えてくださったようです。

しかし、地球は丸いといわれていますので、西にまっすぐに進んでいってもお浄土に辿り着くことはありません。一周して元の位置に帰ってきてしまいます。

では、なぜお釈迦さまは阿弥陀如来の世界を「西方極楽浄土」と言ったのか。理由は諸説ありそうですが、その一つに「対象や方向を指し示すことで、心を寄せやすくなること」が挙げられています。

ということで、わたしの得手勝手な解釈は、浄土は西からくるりと一周した東にもあるということです。屁理屈ですね(苦笑)。


春ふくろ詰めども詰めども春遠し

(はるふくろ  つめどもつめども  はるとおし)

季語は「春袋」です。

春袋とは、初春に女児が縫う袋のことです。袋いっぱいに幸せを詰めたい!という願いがこめられています。

わたしも春袋に願い事をいっぱい詰めたいと思うのですが、詰めても詰めても、袋に穴が空いているのか、それとも単に欲深いのか、袋はいっぱいにならず、春は遠いなあと。

どうも、まとまりのない俳句の集合ですが、そもそも、わたしの脳内は雑多なので、これでも整理されてきた方です。

では、より良い一日をお過ごしください!