ふくら雀
とうとう12月30日です。
丑年も終わりです。自分の生まれ年なのに、しっかり失念しておりました。
父が元気な頃は、干支の手作りマスコットをデイケアのスタッフが年末にプレゼントしてくれました。
でも父が亡くなると、当たり前ですが、マスコットが来ません。
干支との縁も切れました。こうやって、干支とも、周囲の人間とも縁がなくなり、今日の日付も曜日も分からなくなって、惚けていくのでしょう。
やはり、日捲りカレンダーを買ってくるべきだろうか。しかし、これまでは、日捲りすることすら忘れて、一月のまんま一年が終わっていた。
うむむ
朝の4時。冬の朝は音がありません。無音。鳥も虫も鳴いていません。蚯蚓も静かに寝ています。猫は散歩に出掛けて、まだ、帰ってきません。
こんなに静かだと、わたしが寝ている間に、世界中の人が私ひとり残して、余所の惑星に全員が引っ越ししたのではないかしらとか、世界が終ってしまったのではないかしらとか思ってしまいます。
まっ、いいか。ただ困るのは、誰もわたしのランチを作ってくれないということです。
では、今日もよろしくお願いいたします。
丹田はふくら雀のプヨヨかな
(たんでんは ふくらすずめの ぷよよかな)
季語は「ふくら雀」です。これは「寒雀」の関連季語です。
あまりの寒さに、全身の羽毛を膨らませて、ふっくら見えるふくら雀。可愛いです。
羽毛の下に隠された雀の丹田は、果たして、シックスパック並みに鍛えられたものかな。それとも、今のわたしの丹田のようにプヨヨかしら。
意味不明な一句です(苦笑)。突っ込みところ満載といいますか、突っ込む価値すらない、そんな一句です(泣笑)。
寒雀羽毛に隠す腹直筋
(かんすずめ うもうにかくす ふくちょくきん)
季語は「寒雀」です。
なんの突っ込みところもない、単に、寒くて膨らんだ雀が、実は見事なシックスパックの腹直筋、というしょうもない句です(苦笑)。
先日、雀の焼き鳥の話で盛り上がり、どうも雀が気になって詠んだ句です。
寄せ鍋やふところ寂し色三つ
(よせなべや ふところさびし いろみっつ)
季語は「寄せ鍋」です。
本当なら、色とりどりに色んな食材の入った寄せ鍋を食べたいもんです。でも、親の懐の具合がよく分かったのが、色がみっつくらいしかない鍋でした。
自分ちの畑のほうれんそうと値引きがされた豆腐。そこに、肉の赤身でもあれば最高なんですが、人参とかもやし、糸こんにゃくでは出汁も出ません。
一人暮らしを始めて、肉がお鍋を独占状態、そんな寄せ鍋を食べたときは感動でした。
ただ、「色がみっつあれば上等」と先輩からコメントがありました。もしかしたら、あの時代はどこの家庭も似たり寄ったり、お鍋の具材もふたつみっつだったのかしら。
探梅行譲るべき子の無くひとり
(たんばいこう ゆずるべきこの なくひとり)
季語は「探梅行」です。
残す財産がある訳ではないですが、それでも自分の得たものを譲ったり、話したりする、そんな相手がいるのは幸せだと思います。
いつもそんなことを考えている訳でもないですし、仕方がないことだと分かっています。
でも、世間が年末年始で騒々しいと、ふと、考えてしまいます
ところで、ここで俳句の先輩から「譲るべき子のなく」とあれば、「ひとり」は必要ないのではという意見がありました。
そうです。でも、あえて「ひとり」を入れた思いは、譲るべき子はいなくお一人様だが、お一人様で生きていく、そんな覚悟みたいなものを「ひとり」に込めました。
探梅行譲るべき子のなかりけり
でも、この句はただ自分の状況を言葉にしており、それはそれで潔さを感じます。でも、これは感覚的なものなんでしょうね。
初明かり吾子の寝顔に幸願う
(はつあかり あこのねがおに さちねがう)
季語は「初明かり」です。
譲るべき相手もいないのに子供の一句です。でも、子供は自分の子だけではありません。
工房には、生後ふた月になろうとする幼子がいます。師匠夫婦のお嬢さんです。
まだ、初明かりではありませんが、縁側から注ぐ陽を浴びて寝ている幼子を見ていると、「幸あれ」と願わずにはいられません。
師匠が年を取ってからのお嬢さんの誕生で、師匠には元気でいてもらわないと、まさかのヤングケアラーにでもなったら可哀想です。
「煙草吸ってんですか?」「さらに腹が出てきていませんか?」
余計なお世話ですが、思ったことは口にする弟子でした。
日本人の健康寿命が伸びているようですが、あくまでも平均値で、個人差があります。
長生きはしたくないですが、それなりに年を取って、健康に過ごしたいもんです。