
わたしで生きる(家族の記憶の息づくやさしい場所)
車椅子を利用するようになったおやじさんが移動しやすいように、庭にコンクリートの歩道を敷き、スロープも作った花留さん。
夕方になると、夾竹桃の生い茂った木の向こうから、「ただいまー!」と、満面の笑みを浮かべたおやじさんがデイサービスから帰ってくるようで、頬杖をついてスロープの途中で待っている。
忠犬ハチ公みたいに待ちくたびれた花留さんは、「お父さん、遅いね~」と、猫のマールに話しかける。
小さな声で「ただいまー!」と、声に出してみる。花留さんは自分の声なのに、あんまりおやじさんの口調に似ていて、嬉しいやら悲しいやら。
「こ~んな変なところ、別に似なくてもいいのになあ~」、と花留さんは一人で苦笑してみるけれど、懐かしいおやじさんの声が聞きたくて、もう一回小声で「ただいま、、」。
・・・
「あたしが死んだら、こんな風におやじさんのことを思い出す人がいるのかな?」
花留さんはおやじさんの人間関係を思い浮かべてみたけれど、きっといないと思った。すで奥さんだった人は亡くなっているし、おやじさんは兄姉のなかでも末っ子だった。
子どもは娘の自分と息子がいるけれど、娘の花留さんは現在進行形でシングルだし、息子は新潟県に住んでいる。弟と実家とは、物理的な距離が心理的な距離になっていき、疎遠になっていたけれど、最近はLINEをしてくる頻度が増えている。ひとりでいる姉を気遣ってるのかな?
弟はちゃんと結婚して、妻もいるし子どもも3人いる。でも、彼らも自分たちの暮らしに縛りつけられて、遠くに住む義理の父親やおじいちゃんに意識を向けることは滅多にないだろう。
たぶん記憶はしてくれていると思うけれど、記憶も時には引っ張り出してきて、風を通したり、陰干しでもしてやらないとカビが生えてくるんだよ~、と教えてやりたい花留さんだったけど、お節介は焼かないことにしている花留さんだった。
命日とかお盆とかの意味って、よく分からないけれど、亡くなった人がカビだらけになってしまわぬように、故人の記憶を思い起こすためにあるのかな、と花留さんは思った。
月命日みたいに短いスパンでなくても、せめて年に一回でもいいし、もう少し長いスパンでもいいから、記憶を呼び起こしてほしいと、亡くなった人は望むものなのかな?
「私は、いつまで、人の記憶のなかにいたいのかな?」と、花留さんは考えた。
他人が自分のことを覚えていようがいまいが、自分には分からないし、人の記憶のなかに残っていないなんて何てことない。
人は死ぬときに、それまで蓄積した"記憶"という膨大な"記録"とともに死ぬのかな?
でも、あれほどのエネルギーを使って蓄積した記憶、目には見えなくても、どこかにあのエネルギーは残るのかな?
「デジタル・タトゥー」というのがあるけれど、たとえ、人の記憶に残らなくても、デジタル空間に自分の"記憶"が文章や写真、動画という"記録"になって残っている。
それって、良い面も悪い面もあるけれど、何か自分が死んでも、自分が生きてきた記憶と熱量みたいなエネルギーが残る気がして、花留さんはちょっと嬉しくなった。
記憶って、不思議だ。
・・・
「あんまり陽に当たられんよ!オーストラリアから帰ってきた時の花留さんの顔、妙やったき。」
帽子もかぶらずに朝陽を浴びて散歩をしていたら、近所のおばあちゃんが声をかけてきた。
「妙!?」
遥か昔のこととは言え、人の顔を妙と表現するおばあちゃんにムッとすると同時に、花留さんはちょっと感動してしまった。
だって30年以上前、笑うしかないほど真っ黒に日焼けした自分の顔をことを記憶している人がいるなんて。
そんでもって、その顔の記憶に"妙"という言葉がくっついているのがおかしかった。自分の真っ黒な顔の記憶に"妙"というレッテルかをぶら下がってるのを想像して、花留さんは何だか楽しくなった。
自分の記憶が、他人の記憶のなかに、色んな意味付けをされて自分とは違うレッテルをぶら下げて鎮座している。
彼女が死ぬまで、"妙"というレッテルをぶら下げた記憶は彼女のなかにあるかもと思うと、くすぐったいような妙な気分の花留さんだった。
やっぱり、記憶って、不思議だ。