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非正規労働者たちのモンタージュ|仕事の1コマ/06 #1|鰐部祥平

《様々な事情を抱えた人が集まる製造業の現場で消えていった人たちのその後を思う。歯車から外れてしまうのはいとも簡単で……》

鰐部祥平(Shohei WANIBE)
1978年愛知県生まれ。中学3年で登校拒否、高校中退、暴走族の構成員とドロップアウトの連続。現在は自動車部品工場に勤務。文章力が評価され、ノンフィクション書評サイト「HONZ」のメンバーに。趣味は読書、日本刀収集、骨董品収集、HIPHOP。
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職場とは人生における交差点のようなものだ。多種多様な人生を歩んできた人々が、一つの目的のために集い、そして分かれていく。そんな作業が永遠と繰り返されていくのである。私が長年働いている製造業は特に人の行き来が頻繁だ。現場の多くが非正規労働者によって回されているためだ。彼ら非正規労働者の回転率はとても速く、様々な人々が私の人生に立ち現われて、そして去っていった。

「お世話になりました。何かの縁があったらまた会いましょう」そう言い残してUさんが私の職場を去っていったのは10年以上前だった。当時は「働き方改革」の前で、私の職場では2直制で工場を24時間フル稼働させていた。1直12時間労働だ。それを休日出勤も含め週6日行う。トヨタ自動車の工場のような冷暖房完備の工場でなく、夏には場内が40度ほどにもなり、冬の夜勤などは0度くらいまで冷える。長時間労働に加え過酷な労働環境で重量物を扱うラインは肉体的にも精神的にも辛く、ほとんどの派遣社員が2週間以内に辞めていった。

Uさんはそんな状態で1年半か2年ほど派遣社員として働いていた、稀な人物だった。私がラインリーダを務めるラインにUさんが配属されたとき、彼は携帯電話も現金も持ち合わせていない様子だった。年のころは40代前半、小柄でずんぐりした体型。外向的で人当たりもよいのだが、メガネの奥に見える一重の目は眼光が鋭く、直ぐに堅気の人ではないのが分かった。Uさんも私をみてそう感じたのか、ニコニコしながら「鰐部さん、昔は悪かったでしょ?」と話しかけてきた。

お互いの素性などを話し合うとすぐに打ち解けて、仕事中などに雑談などを交わす仲になった。Uさんは土曜日の休日出勤に度々出られないことがあった。ある日、彼は申し訳なさそうに「実はボク弁当持ちなんだよね」と打ち明けた。弁当持ちとは刑務所から出所した人に課せられる「保護観察」の隠語だ。

私はUさんが何をして逮捕されたのか尋ねた。どうやらUさんは金融機関に強盗に入り、5年ほど塀の中にいたらしい。土曜日に出勤できないのも保護観察官との面談のためだという。彼が入社後すぐのときに無一文だったのも、携帯を持っていなかったのも、刑務所から出てきたばかりだったからだ。そして彼が過酷な労働条件でも辞めることなく働き続けたのも、保護観察中のためであった。

保護観察が解かれたUさんはより良い給料を求めて福島の除染作業員として働くことを決めた。除染作業でお金をため、派遣会社を立ち上げたいと夢を語ってくれた。人生をやり直し、再起を図りたいという。福島へと旅立ったUさんが夢をかなえたのか私は知らない。親しくはしていたがプライベートで連絡を取るほどでもなかったためだ。10年が経過した今Uさんは50代になっているだろう。元気でいてくれることを願う。

SさんはUさんよりも1年ほど前に入社し、Uさんが去った後も数年間在籍していた。年のころは当時で40代後半、心を閉ざし、誰とも打ち解けない寡黙な人であった。仕事はできる人だったが、身だしなみが酷く、髪や髭は伸び放題で脂ぎっており、顔も垢じみていた。一目で何日も入浴していないのが分かった。作業服も汚れ放題で、汗が乾いた後に塩がふき、白い輪染みが年輪のように広がっていた。彼は突然、逃げるように退社した。退社後に派遣会社の担当者がSさんの寮に入ったところ、膝丈くらいの高さまでゴミが積もっていた。窓際には尿が入ったペットボトルが数十本置かれており、トイレは便器の中までゴミが詰められており使用できない状態であったという。Sさんはセルフネグレクトを患っていたのだ。

数週間後の早朝に、工場近くの公園のベンチで大きな袋を抱えて眠るSさんが目撃された。いま、彼がどこで何をしているのかは誰も知らない。まだホームレスをしているのか、人生を立て直して、居場所を手に入れたのか。後者であることを願うばかりだ。

妻子があるために正社員登用を目指していたYさんは、頑張れば正社員に登用すると言われ、積極的に長時間労働を受け入れていたが、無理がたたり鬱病を発症してしまった。彼が鬱病のため長期休業を申請したところ、会社側は即日で派遣切りを断行した。Yさんは病の中でそれをどのように受け止めたのだろうか。今はどこかで正社員として頑張っているのだろうか。

幼少の頃に父親に何度も両腕を焼かれるという虐待をされ、そのトラウマを抱えて生きてきたもう一人のYさんは今頃どうしているのだろうか? 彼は普段はとても明るく、楽しい人であったが、時に恐ろしいほどに人生に投げやりで冷笑主義的な態度をとっていた。根がいい人だけに、とてもその姿が痛々しく見えた。彼も突然、無断欠勤を繰り返すようになりクビになった。今はどうしているだろうか。

まだまだ、記憶に残る多くの人々がいる。彼らは今も元気で働いているのであろうか? 未だに派遣社員として、社会の片隅をさまようように生きているのか。それとも、どこかに根を下ろし安住の地を見つけたのだろうか。

古の中国の詩人、陶淵明は「人生に根蔕(こんたい)は無く 飄として陌上(はくじょう)の塵の如し」と詠んだが、日本の主要産業である自動車産業の最底辺では彼らのような人々が、根無し草のようにさまよいながら過酷な労働をこなし、産業構造を下支えしているのである。もちろん彼らが苦しい立場にいるのは彼らの行動の積み重ねの結果である面も否定はできない。

とはいえ、乗り越えることが難しい社会的状況(彼ら全てが氷河期世代)や心の傷、または病を抱え、長期的に一つの場所で働いたり、人間関係を構築したりすることができない人々もいる。腕を焼かれたYさん、セルフネグレクトのSさんなど彼らの心をサポートする公的機関はあるのだろうか。たとえあったとしても社会から孤立しがちな彼らの元にその情報は届かないだろう。

働き方改革のお陰で、かなりホワイトになった私の職場だが、今も毎週のように人が辞め、新しい派遣社員が入ってくる。もう彼らの多くは50代だ。彼らは、残りの人生で根を張って暮らせる場所を見つけることができるだろうか。そして同時に明日は我が身だとも思う。誰だって、人生の歯車が一つ狂えば彼らのような境遇に陥ることを私は知っている。私もかつてはそうだったからだ。いつまた、運命の歯車が狂うのか。その恐怖を感じながら今日も私は働いている。

文:鰐部祥平


>>次回「仕事の1コマ/06 #2」公開は2月6日(木)。執筆者は山下陽光さん

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