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「起立、礼、着席」さえ苦痛な子どもだった|学校/02 #1|鰐部祥平

《羞恥心を抱かせ子を支配しようとした教師と、集団生活がどうしても苦手だった自分のこと》

鰐部祥平(Shohei WANIBE)
1978年愛知県生まれ。中学3年で登校拒否、高校中退、暴走族の構成員とドロップアウトの連続。現在は自動車部品工場に勤務。文章力が評価され、ノンフィクション書評サイト「HONZ」のメンバーに。趣味は読書、日本刀収集、骨董品収集、HIPHOP。
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学校が嫌いだった。とにかく私は学校というものが好きにはなれなかった。別にイジメられていたわけではないし友達がいなかったわけでもない。しかしとにかく学校が嫌いだった。

まず理由の半分は私の性格の問題であろう。私は基本的に協調性が著しく欠けており集団行動が苦手なのだ。「起立、礼、着席」といった授業が始まる前の集団行動さえ苦痛なほどで、運動会の練習で行われる行進やら、朝礼での整列やらは、いま思い出しても気分が悪くなるほどだ。基本的に大人になってもこの性質は変わっていないため、現在勤務している工場でもいささか問題人物とされていることを自覚はしている。あきれるほど社会不適応者なのだが、人は自分の持って生まれた性質と折り合いをつけながら生きていくしかないので、この辺りは大人になってから、かなり達観した見方ができるようにはなったと思う。

残りの半分は小学1年の時に経験した出来事だ。1年生の時の担任の先生はベテランの女性教師であったのだが、この女性教師がことあるごとに私を、できの悪い見本として扱ってきた。私は勉強があまり得意ではなく、特に算数が苦手だったのだが、担任の教師は私が問題を解けないことを承知の上で指名し黒板の前で問題を解かせようとした。黒板の前でしばらく私がまごついた後に成績が優秀な生徒を指名し問題を解かせる。そして「しっかり勉強しないと鰐部君みたいになってしまうよ」というようなことを宣うのだ。このようなことが日常的に行われていた。さらし者である。

6歳の私の心の中に劣等感の根が深く浸透し絡みついて行くのに時間はかからなかった。私は自分が出来損ないで恥ずかしい人間なのだと思うようになっていった。この感覚から抜け出すのにはずいぶん苦労したものだ。しかし今でも完全には抜け出せていないと思う。優等生タイプの人が目の前にいると、どこか引け目を感じてしまうことが今でもあるからだ。

長じてから、これは心理学的には「恥」や「罪悪感」などを利用して他人をコントロールする「カバートアグレッション」と呼ばれる心理特性を持った人々が行う行為だと知った。毒親と呼ばれる人から、会社の上司、果ては宗教団体などでも行われる他者を支配する方法だ。担任の教師としては集団行動の輪の中に溶け込もうとしない私を上手くコントロールするためにしていたのだろう。しかし、幼少期にこのような心理的攻撃にさらされると精神の成長に大きなダメージを受けることが分かっている。

中学の頃には学校生活にホトホト嫌気がさし、ほとんど登校していない。高校は名古屋市内の定時制高校に通っていのだが、このころには暴走族のメンバーになっており、かなり荒れた生活をしていた。学校でも問題行動が多く、教師とよく対立していた。定時制高校ということで荒れた生徒が多かったが、いじめや不登校から立ち直るために頑張っていた一部の生徒もいた。彼らからしたら、私たちは迷惑な存在であったであろう。今から考えれば恥ずかしい限りなのだが、あの時は鬱屈した感情を暴力的な行為でしか処理できなかった。とにかく中学、高校は私にとって心に刺さった棘のような存在だ。結局、高校は中退した。

ヨーロッパで始まった近代教育制度だが、このシステムは近代戦争を戦う兵士や工場での労働集約的業務をこなせる国民を生産するために生まれた制度だ。歴史学者、哲学者、社会学者でもあるアーネスト・ゲルナーはこうした近代教育システムが農業社会から産業社会へと変化する中で分業化と流動性を担保し、言語の均質化を始めとする文化の共有をもたらすことになったと分析している。文化の共有と均一化はナショナリズムと国民国家を生み出す。ナショナリズム、国民国家の良し悪しは別にして近代教育システムとは現代の産業社会の通念を再生産し続けるシステムであり、物質的に豊かな世界を維持するために必要なものなのだ。私が学校にどのようなルサンチマンを持っていようとも、その恩恵を受けている。私が物質的に豊かな暮らしを送り本を読むことができるのも、こうして曲りなりに文章を書くことができるのもこのシステムのおかげでもあるのだ。

ただ人である以上システムから逸脱する個人は必ず出てくる。このような人々をどのように扱うかは問われるべきだと思う。幸い、今の学校は私が子供の頃とはだいぶ違うようだ。私の息子は軽度の発達障害と診断されている。多動など問題行動もみられるが学校の支援体制は万全で息子は特に問題児扱いされることもなく伸び伸びと育っている。おかしな劣等感を持つこともなく、積極的に学業に打ち込み成績も優秀だ。この数十年間で教育の現場も大きく変わったのであろう。協調性の欠如や発達障害などは所詮ただの個性なのだ。私の子供の頃とは違い、今の学校はこうした個性を包括できるシステムが出来上がりつつあるのだろう。さまざまな個性を自由に伸ばし、かつ認め合えるような教育を受けた今の子供たちが成人し、社会の中核を担うようになった未来が私は楽しみでならない。

文:鰐部祥平


>>次回「学校/02 #2」公開は10月6日(日)。執筆者は山下陽光さん

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