ママからの電話
なじみのスナックのママから電話がかかってきた。
ママからは、不意に脇を小突かれるようなタイミングで電話がかかってくる。最近会っていない人。会いたいと思っているのに会えていない人。
そういう人の中にママも入っていた。
「みんな元気にしてる?」そう言うママの「みんな」には、五目ご飯みたいにいろんな人や物事が含まれている気がする。その言い方がとても好きだ。
「会いたいね。でもこんな世の中だから。暖かくなったらだね」
お互いのことを想って、ママとわたしは今年の正月以降、積極的に顔を合わせていない。町内が生活圏だから、会おうと思えば会える。でも会わない。ママの「暖かくなったら」という表現には、今世界中で起きているモノコトへの憂いと、きっといい方向に行くよ、という願いが含まれているように思えた。
“長いこと会っていなくても、心の中では通じ合っている”
ママは、そういう類の友人の一人。そんな友を持てることは人生の宝だと思う。でも、会わなくても平気でいられるのは、「いつかどこかで会えるかもしれない」という“希望”が含まれているからだ。こうして会えない日々が続き、ふと思い出したように電話をかけてきてくれたママ。考える前に行動(電話)してくれたんだということは、喋り方からわかった。
受話器越しにママとおしゃべりしながら、頭をよぎったことがあった。
「いつかどこかで会えるかもしれない」は、「もう二度と会えなくなるかもしれない」と隣り合わせなんだ。だから大切な人とは、「これが最後の会合であり、永遠に続く営みでもある」と思って一緒に過ごしていたいし、できるだけリラックスして、時間を忘れるくらい楽しみたい。
ごはんを作ってもりもり食べる。おいしいおやつとお茶で休憩する。友人とたわいもないことで笑いあう。熱いお風呂に浸かる。家族で並んでお布団に入る。毎日の行いをどんなときでも楽しむのは困難かもしれない。けれど、その核にあるのは、ものすごくシンプルなことだ。愛する人と、お互いを温めあいながら一緒に過ごすこと。それを難しくさせているのは、豊かに暮らすために必要なだけの生活必需品が手に入らないという状況だったり、目に見えないモノコトに覆いかぶさるようにして押し寄せる情報の多さだ。そんなうずまきの中で、たくさんの人が、いろいろな声の出し方で表現している。今何をすべきか、何が喜びを増やすか、各々実感したことを発信し、共有し、それぞれのやり方で行動している。微力だけど無力じゃない。世の中に春の暖かさをもたらすのは、私たち一人一人の行いなんだ。
「会う」は、顔と顔を合わせるだけじゃなくて、手紙でもメールでも贈り物でも、なんだってその人の元へじぶんの気持ちを送ることができる。「あなたを思い出したよ」という気持ちを届ける。それは直接会うことよりも、ずっと温かい行為になる。ママは電話という方法でそれを示してくれた。誰にでも思いつけるような行為だけど、やらなきゃ意味がない。ママとの電話は短いものだったけど、お互いを温めあえる、やさしい贈り物の時間だった。
「これからだよ。これから、みんなで幸せになろうね」
「幸せは自分で探すんだよ。待ってちゃダメだからね」
と、ママは言った。
受話器越しに聞くママの声。含みのある、けれど芯のある喋り方。
ママがいるから、ママの店が成り立つ。言っちゃえば当たり前なんだけど、そこには何層にも折り重なった歴史があって、たかだか数十年しか生きていないわたしなどには想像も及ばないストーリーがたくさんあるんだろう。授乳中なのでお酒はまだ飲まないけれど、この町にママのお店があるということが、わたしにとって、灯台の明かりなんだ。
わたしは「うん、うん」と頷くことしかできなかった。でも何か、新芽のようにやわらかくて瑞々しい希望のようなものが、じぶんの中にふわっと湧いた気がした。行動しよう。方法はいくらでもある。
ママの魅力がいっぱいつまったお店は、夜の11時くらいに開きます。
すべてにママのカケラが感じられる、本当に素敵なスナックです。ビールがおいしい。レコードもいっぱい。夜が永遠に続く、町のエッジ。
自宅で過ごす人が多い今。いつかふらっと夜の飲屋街に来ることがあったら、ちょっと斜めについた扉が粋な、星が光るママの店を探してみてね。