宝物みたいに大事にしたい場所
小川糸さんの本を読み終えたので、よし図書館に行こうと思った。
その日はお散歩がてら夫と息子と一緒に行くつもりでいた。さぁ出かけようかという時、夫の胸の中でとろけたチーズのように息子が眠ってしまった。
「行ってきたら?」と夫に促され、一人図書館へ行くことにした。
初めて自分のために買った革靴があって、今日は絶対にこれを履いて散歩に行こうと決めていた。一人で出かけることになったので歩く必要も車を運転する必要もなくなった。久しぶりに自転車だな、と夫のファットバイクをいそいそと車庫から出し、まだ知り合ったばかりの緊張感を楽しみながら革靴の紐をキュッとしめ、出発した。
図書館の近くには大きな池のある公園があって、のびのび手足を広げられる芝生や子ども心くすぐるアスレチック遊具、足漕ぎボートなんかがあり、池の周りはくるりと歩いて回れるように橋がかかっていたりする。イチョウの木の生え方とか、水面に映る雲の動きとか、犬と散歩しているおじいちゃんの佇まいとか、そういう気をつけていればどこにでもある風景が、深く息を吸って吐くように公園に浸透している。日常の動線に咲くちょっとした小花みたいな公園で、気張ってないのに粋さを感じる。
図書館の帰り、この公園に足を伸ばしたくなることが多い。借りたばかりの本が鞄の中でホカホカしていて、たらたらと小道を歩いて外の空気を吸い込むと、身体中の細胞がジャブジャブ洗濯されるような気分になれる。本は読むのもいいけれど、持っているだけでもいい。心の奥の暗いところにぽんやりと明かりが灯って、さっきまで冷たかったところを人肌くらいに温めてくれる力があると思う。
「この公園の敷地内か近くに、屋台コーヒー屋さんとドーナッツ屋さんがあればなぁ」
公園に行くたびにそんな妄想をしている。
きっと素敵だろうな。嬉しいだろうな。だって、例えば平日のお昼休憩に公園にふらっと歩いて行って、そこにおいしいコーヒーとドーナッツの香りがぷんと漂ってきて、不意に気持ちの良い風がピュ〜っと吹いてきたら、もう生きているだけで最高じゃないかって思えるかもしれない(それはわたしがコーヒーとドーナッツが好きだからかもしれませんけどね)。やることが増えるのは人生の時間を奪われちゃうから気をつけないとなぁと日頃思っているけれど、「こんな風に暮らしていられたら幸せ感じちゃうな」という日常の動線が増えるのは、素敵なことだと思う。
自分の家でコーヒーを淹れて、なんなら豆乳か牛乳も混ぜて、水筒に入れて持っていけばいいじゃないか。と思って何度かやってみたけれど、わたしの心は半分も満たされなかった。使い捨てコップではないからエコではあるし、自分のその日の具合で好きな飲み物やお茶菓子を持ち歩けばいい。けれどわたしの身体が欲しいのは、そういうものではない。公園のそばにある屋台コーヒー屋さんとドーナッツ屋さんから買って、その場の空気感と一緒に噛みしめたい。
「もの」ではなく、「経験」がほしいのだ。
自分の心が満たされない理由がなんとなくわかったような気がして、それでもわたしは、いつか自分の生活圏内に屋台コーヒー屋さんとドーナッツ屋さんのある暮らしができたらいいなと思っている。地球規模で見ればコーヒー屋さんもドーナツ屋さんも世界中のいたるところにあって、行こうと思えば車なり飛行機なりフェリーなりでいつだって行ける。でも、思いついたときにぽろっと歩いて行ける距離にあるのがいいのだと思う。家から近いスーパーとか学校、職場や秘密の場所、そういう自分に属している場所までの道のり。なんてことない日常の積み重ねが人生になるのだとしたら、子どもにとっても大人にとっても、そんな代わり映えしない生活圏内こそ、宝物みたいに大事にしなくちゃいけない場所だと思うから。
そんな帰り道、こともあろうに小雨が降ってきた。革靴が〜〜!と心の中で叫びながら、傾斜はめちゃくちゃユルいけれど確実に太腿を痛めつける坂道を家までこぎすすめた。
よしもとばななの本を二冊借りて帰ってきたわたしの綿の上着は、控えめな水玉模様になっていた。そういえばやけに鞄が重たいなぁと思って中を広げて見ると、返すはずだった小川糸さんの本が入ったままになっていた。まるで眠っている赤ん坊みたいに静かに収まっていた。
「雨にも降られるし、本も返せなかったなんて。可哀想だねぇ」
わたしの阿呆な様を、夫は愉快そうに慰めた。