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ホヤを捌いて思い知ったこと

室蘭に住んでいる人生の先輩から、殻つきのホヤをいただいた。
「お祭りで金魚をとってきたからおすそ分けするね」というような見た目の透明なビニール袋たっぷりに、海水に浸かっている大きなホヤが一つ入っていた。

キッチンばさみだけで捌けるという動画を見つけ、一連の流れを見たら、「ああ、これならわたしにもできそうだわ」と思った。3%の塩水を用意して、いざ、ビニール袋に右手を入れ、ホヤを取り出した。

ホヤは、ぬんめりと重たかった。つい昨日まで生きていたという事実をまざまざと感じ、わたしのからだは内側から粟立った。こわい。手のひらにゴロンと乗っている命の塊が、こわくてたまらなくなった。そう感じたのと同時に、からだの奥の方でうとうとしていた野生の勘みたいなものが反射的に目覚めて、使い慣れたキッチンばさみを握り、冷静に捌き始める自分もいた。パックリと殻が解放され、中から鮮やかなオレンジ色の身が出てきたときには、細胞ぜんぶが筋肉になっちゃったような、強い武者震いを感じた。

殻の隙間から指を入れて身を取り出すとき、うるうるとした美しい身がとても生々しかった。とっさに、出産のときのことを思い出した。殻と身がきれいに分かれ、まな板の上に安置されたとき、

「わたしはこれから、いのちをいただくんだ……」

と、祈るように思った。

わたしたちは地球を食べている。日々の食卓に並ぶものはすべて地球で育まれ、生きてきたものたちだ。そんな当たり前なことをズバッと思い知らされ、用意しておいた塩水にそうっとホヤを沈みこませながら、頭をハンマーで打たれたような気持ちになった。

ホヤは新鮮で、宮城県の石巻で暮らしていたときに食べていたものと同じくらいおいしかった。半分はお刺身に、もう半分は天ぷらにした。畑仕事ばかりの土っぽい手が、久しぶりに海のにおいになった。

この世界は偶然の連続で、運よく、たまたま生き残っている生き物で成り立っている。生きていることは当たり前なんかじゃない。そんな中にわたしもいるんだけど、何をやってもくすぶる日もあるし、頭の中がぐちゃぐちゃで「わーーー!」と走り出したい日もある。それはしょうがない、だっていろんな日があるんだから。それでもいいから、食べたホヤの命のエネルギーをすっかり全うできるくらい、からだいっぱい生きる。たまたま生き残っているこの人生を、ありがたく楽しむ。

そう強く思った、日曜日の夜な夜なでした。

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