閑話4
”いろいろありがとうね、ようりさん。”
ことばだけなら、なんてことないことば。
でもそれを受け止めたわたしの気持ちはちょっと複雑。
お礼を言われてうれしかったとか、そんなつまらない話ではない。
いっそう分かり合えたとか、ぐっと近い存在になったとか、そんなありていな話でもない。
わたしとようりはこのときシンクロした、みたいな陳腐な言葉では到底表せない。
ただ松乃さんのあのひとことが持つ本当の質量を本編で伝えるためには、やがてそのことばに乗ることになる重みが増してきたプロセスを描き切らなければならない。
でもそれは無理。
たとえば「ありがとう」ではなく「ありがとうね」に響く部分もあるのだけれど、残念ながらこのニュアンスの違いを描写し切る技量などわたしにあるはずもない。
それに松乃さんは親しくない人に対しては幾重ものヴェールで自分を包むひとだ。わたしの知っている松乃さんが、わたしにだけ見せてくれた松乃さんでないとも限らないから、彼女を描くときわたしは慎重になる。
いままで本編で書いてきたことだって、松乃さんが知ったら嫌がるかもしれないのに。
だからあのときのわたしの体験は、”セミドキュメントという作品”から遠ざける。
そして、松乃さんのことばによってわたしの内面に起こった変化だけを、現実のいまのわたしの言葉で書くことにした。
ただTwitterには長すぎたのでnoteを借り、閑話として納める。
松乃さんのあのことばは、あのとき”ようりの心”をきっと激しく動かした。”ようりを見ていて”わたしはそれを感じた。
これだけでもとても様子が怪しいのだけど、いまからもっとおかしなことを言うよ?
「松乃さんとようりがどんな関係だったのか、”お互いに”どういう感情を抱いていたのか、本当のところを”わたしは知らない”。だけどあのことばに”ようりが心を動かされる様子”に、わたしは”共鳴”してしまった」んだよ。
そう。
たぶんそのとき、ようりの人格はわたしと完全に切り離されてしまったのだと思う。
それは”わたしの別人格”などという生易しいものではなく、かつてわたしの一部ではあったけれども、MMの中でようりとして成長し独り歩きを始めた”別人”だ。
その一方で、わたしはMMという世界に実存するようりを内面から客観視する主観、つまりようりの”心の声”のような存在になったというような、真逆の感覚もあった。
だから ようりの心の声=現実のわたしの意思 のはずなのに、ようりがわたしの思い通りに振舞ってくれないようなことを、このあと何度も経験することになる。
これはすごく不思議な感覚だったけれど、もっと理性的な表現を借りることもできる。
つまり、気持ちと行動がうらはら、なんてことは現実でもしばしば体験するところだ。TPP視点という視覚情報がとてつもなく具体的で強烈なので、いつのまにか自分自身を俯瞰する心の動きがキャラクターを俯瞰する行為と混同してしまうに過ぎないのだろう。
なににせよ、ようりは松乃さんのことばに強く胸を打たれ、彼女をかけがえのないお友達だとあらためて思い直したに違いない。
わたしがそうであったように。
そしてこのできごと以来、わたしはMMにいるとき、まぎれもなくようりになっていた。
閑話休題
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