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吉野川を挟んだ下市と大淀の二町をあるく(前編)【My Dark Tourism 奈良】

 県立同和問題関係史料センター主催の歴史ツアー二回目は午後から大淀町だった。せっかくなので午前中に、合流場所の近鉄・下市口駅から吉野川を渡った下市の町をあるきまわることにした。駅から5分もあるけば、境界の千石橋だ。

 その前に大淀側で、有名な「下渕マーケット」の廃墟を覗いてみた。下市口駅から南へつづくシャッター街のアーケードが終わり、東西の国道309号線と交わる角、30m×50mほどの敷地にいつ崩壊してもおかしくない、かつての賑わいの残滓がその身をさらしている。ふつうに考えれば一等地ともいえる場所で、建て替えもされずに残っているのは、そのまま町自体の衰退を象徴しているようにも思う。

「下渕マーケット」正面入り口


T字に伸びた通路の両側に店舗が並んでいた。

 和歌山から伊勢へ至る伊勢南街道とそれに沿って流れる吉野川、北は奈良・京都の都へつながり、南に天皇や貴族の信仰厚い吉野、そして修験のメッカである大峰山を控えたこのあたりが如何に栄えたか、想像するのに難くない。

吉野川に架かる千石橋。手前が下市、向こうが大淀町。

 人や物の流通に海や川が往時の高速道路代わりであったように、かつて「山家なれども下市は都、大坂商人の津でござる」と謳われ、江戸時代初期には日本最初の商業手形「下市札」が発行された下市は交通の要所でもあり、古来より神奈備とされた青根ヶ峰に源を発し吉野川へ合流する秋野川沿いに願行寺の寺内町としても発展した。

江戸時代に吉野杉で作る酒樽の材料の端材が捨てられるのを惜しんで考案された、
割り箸発祥の町でもある。

 わたし自身、奈良で暮らすようになってすでに二十数年が経つが、下市は天川や洞川へ車で行く際の通過点に過ぎず、足を止めて見回ったことはこれまで一度もない。かつての賑わいは、それでも町のあちこちに残り香のように佇んでいる。そうしたものをひとつひとつ、訪ねていった。

浄土宗 西迎院向かい、1863(文久3)年創業の寺坂食堂。


創業1180年代、日本最古の寿司屋と言われる「つるべすし弥助」


八幡神社参道横のかつて旅館だったという建物


中世の秋津氏の山城址に立つ八幡神社からの町の眺め

 吉野川をわたり、車ではこれまで数えきれないほど走った、町を南北に貫通するメイン道路を古い建物や廃業した店舗などをゆっくり眺めながら歩き、中世に秋津氏の居城だったという山城の西の斜面に建つ下市八幡神社に登った。検非違使としてこの地に赴任した秋津氏は代々この下市を支配し、後醍醐天皇の吉野遷宮にも一郡の長として旗を賜ったという。その後、北山一揆の際に動員されてかの地で戦死したという記述もある。城は1559(永禄2)年に落城炎上したという。永禄2年というと、あの松永久秀が奈良に多聞山城を築いて居城とした頃だから、群雄割拠の戦国の一場面だったろうか。

 八幡神社を下り、秋野川沿いの路地をしばらく散策した。廃業した「日の出湯」の建物と煙突、地酒「老松」の藤村酒造。橋のたもとでお婆さんが三人坐り「これから昼寝かい」なぞと話している。

町の中央を蛇行して流れる秋野川


「日の出湯」の入口は板が打ち付けられていた


地酒「老松」の藤村酒造


左 1863(文久3)年創業の醤油醸造所「土佐治本店」

 地醤油「土佐治本店」を横目に、かつての秋津城址の南を東側へ回り込むように坂を登っていく。じつは、いちばん行きたい場所がこの先にあった。前日、グーグルマップ上をさまよいながら、これを見つけたから下市の町を歩いてみようと思ったのだ。じきに道は左手に竹林を見ながら、のどかな風景に変わっていく。

秋津城址の東側斜面に広がる共同墓地

 「墓」古墳は奈良にいくつかあるが、「墓」山城ははじめてだ。下手はみな新しい墓ばかりだが、斜面の墓は相当の年代を経たものが多く、すでに竿石が倒れ、崩壊したままのものもある。落城後の江戸時代あたりから墓地として使われ出したのだろう。そんな苔生した墓石の間をうねうねと登っていくと、頂きの墓が途絶えた奥に虎口(城の出入口)があり、樹の間に分け入ると平坦な主郭があるが、そこにも立派な墓がいくつか立っている。北の堀切、二段の曲輪の跡などがわずかながら伺える。

頂きから見下ろす。倒れたままの竿石が多い

 この下市の共同墓地でいちばん驚いたのは、東の平坦地にずらりと並んだ軍人墓である。その数、170基近く。つまり170名以上の“いわれなき死”を迎えた「記憶」がここに眠っている。大阪の真田山陸軍墓地のような、いわゆる官製の旧陸軍墓地などには数十、場合によっては数百の個人墓が整然と列をなしているが、このような集落の共同墓地でここまでの数の軍人墓が並んでいるのは、正直はじめて見た。

170基の軍人墓がならぶ一画

 墓石などは写真に撮らないと決めている人もいるだろう。わたしは墓というのは、生きた人のよすがと思うのだ。特に戦争などでいのちを落とした「異常死」の死者の墓碑には、残された者の言うに言われぬ思いが刻まれていることも多い。なぜ、死ななければならなかったのか。なぜ、生き続けられなかったのか。「英霊」なぞといった言葉で安易にくくってしまうと、それらの思いはこぼれ落ちてしまう。170の墓があれば、170の思いがあるはずで、墓石はその異なる思いを物語っている。

 ひとりひとりの名前を心中で読みあげて、手を合わせながら、戦死した場所や経緯などの刻まれた文字を読んでいく。日本では敗戦後だった昭和20年12月に「満州」鉄嶺で死んだ18歳の少女の墓が軍人墓と並んでいた。昭和19年に呉の海兵団や病院で亡くなった兵士たちがいる。昭和24年にソ連の収容所で亡くなった兵士がいる。18歳、21歳、24歳の三人の息子の名が刻まれた墓標がある。昭和22年「自宅に於いて療養中戦没」と刻まれた墓がある。

「昭和20年12月20日 満州鉄嶺ニテ戦歿」した18歳の少女の墓


18歳、21歳、24歳の三人の息子の名が刻まれた墓
「昭和24年8月31日 ソ連ロムソモリスク地 第四収容所ニテ戦歿ス 行年36歳」


 なかでもいちばん印象的だったのは「水本芳松家族四名之碑」と書かれた墓だ。側面には「昭和20年3月9日 帝都空襲 家族四名焼死ス」と刻まれている。

 Wikiによれば「「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった」 墓碑に9日と記されているのは「日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された」ためであろう。この一夜の殺戮で一説では10万人以上の死者・行方不明者が出たとされている。

 下市出身の水本芳松一家は故あって当時、東京の下町で暮らしていたのだろう。父が49歳、母が37歳、かすれて読みにくいがまだ小学生だったろう長男と次男がいっしょに亡くなっている。一家全滅だったろうか。隣には昭和20年3月に比島で戦死したおなじ「水本」姓の兵士の墓が並び、どちらも「水本巳之吉」が建立している。巳之吉は芳松の兄ではなかったろうか。かれは戦死した息子と、東京空襲で全滅した弟一家の墓を刻んだ。

 しばらくその墓の前で立ち尽くした。

「昭和20年3月9日 帝都空襲 家族4名焼死ス」と刻まれた墓
父、母、長男、次男の名が刻まれている


倒れたままの古い石仏。童女の墓だろうか、優しい顔をしている。

 秋津城址をぐるりと一周するように、ふたたび下市の町中へもどった。墓地で予想以上にゆっくりしてしまったために、歴史ツアーの集合時間まであまり余裕がない。

 当初は150年もの歴史を持つ老舗食堂の「寺坂」で食べログの写真にあった「目玉焼きが乗っかった親子丼」を食べて、もしあれば鮎の内臓をつかった「うるか」を土産に買って帰りたいなどとひそかに思っていたのだけれど、この時間になっても扉は閉まったままで暖簾も出ていない。途中で見かけた川富の日替わり定食「すき焼き肉豆腐」もそそられたが、まだこれから歩くのに重たくも思われ、「おけ常」の日替わり寿しセットもせわしなく食べるのが勿体ないようで、結局下市口の駅裏にあったローソンでおにぎりをひとつ買って慌てて口に押し込み、メープル味のナッツの小袋をポケットに忍ばせて済ませることにした。

まったりとした下市口駅

(後編につづく)


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