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知多半島でいざり車と軍人像に出会う旅【My Dark Tourism 愛知】

 車の後部座席を倒し、助手席との隙間を埋める手製キットを装着し、買ってまだいちども使っていないエアベッドを乗せ、寝袋を放り込んで知多半島へ走った。奈良から名阪国道を経由し、節約のためにあとはひたすら下道を行く。柘植の峠付近で小雪がちらついていたが、四日市へ下ったあとはもう快晴だった。3時間半ほどで焼き物の街・常滑に着いた。案外と早い。

ホームセンターで買った900円の折畳みの踏み台と組み合わせた
後部座席との隙間を埋める自家製フラットボード。これでゆったりと
足を延ばして眠れる。

 常滑駅前でひさしぶりの「うをとよ」の競艇ラーメンに舌鼓を打った。もう6年ほど前になるが仕事で約一ヶ月、この常滑に滞在したことがあった。同僚のKさんとよく食べに行ったのがこの店で、競艇ラーメンをさりげなく「ボート、ひとつ」と注文するほどの短期常連だった。当時はボートレースのお客たちがテレビで実況中継を眺めているような年季を感じる店だったが、小奇麗に改装されて、値段も100円づつ上がっていた。けれど、このコロナ禍で続けていてくれたことだけで嬉しい。梅干しのおにぎりが添えられた常滑ブラックのラーメンは健在だった。

名物・競艇ラーメン 700円

 常滑駅前から海沿いの旧街道を車で十数分も走れば第一の目的地、大谷集落にある曹源寺だ。知多四国八十八箇所霊場の番外札所でもあるこの曹洞宗の寺の創建は1500年頃、明治までは隣接する八幡社を所管していたために「宮寺」とも呼ばれ、地域から親しまれていたそうだ。そのせいか、どこかすっきりとした開放的な雰囲気の境内でもある。

 旧街道に沿った門前に「厄除大師 躄車奉納霊場」の石碑が建つ。「躄車」は、いざりぐるま、と読む。いざりや足萎えは、いまでは差別用語だろうか。現在の車椅子が登場する前、平安時代から戦前までの約800年間、車椅子の役割を果たしていたのがこのいざり車であった。古くは『一遍聖絵』や説教節で有名な『小栗判官絵巻』などにも登場する。小栗の場合は不具になった身体を横たえた土車に添えられた文句「この車 ひと引き引いたは 千僧供養、ふた引き引いたは 万僧供養」を見た人たちによって曳かれ、蘇生した熊野の湯峰にはその土車を埋めたと伝わる「車塚」も存在している。

「をくり(小栗判官絵巻)」 伝岩佐又兵衛 15巻のうち 江戸時代 17世紀

 この曹源寺に伝わるのは1923(大正12)年、病気平癒を願っていざり車を一頭の犬に引かせ諸国を巡礼していた岡山の病者が、この知多郡の新四国霊場の途上で弘法大師の夢のお告げによって不自由な身体が快癒したため、その車を奉納したと伝えられるものだ。

 本堂の左端に「躄車奉納の縁起」と題した解説版があり、その背後の引き戸がすこしばかり開いていて、隙間からWeb写真で見たいざり車が覗けている。せっかくここまできたのだからもっと間近で見たい、と思いながらなおも覗いていると、若い僧侶が気がついて声をかけてくれた。「奈良から、これを見に来ました」と言うと、どうぞどうぞ上がってゆっくり見てください、と親切に堂内へ招いてくれた。そして先代の住職が印刷したものだけれどと、「躄車奉納の縁起 感謝の信仰」という一枚の紙切れを下さった。末尾に「大正十三年一月記す 大願成就記念の為め数年使用仕りし躄り車を大谷曹源寺にのこす 岡田長五郎」と記されている。

曹源寺 躄車奉納の縁起 感謝の信仰

 これによると岡田長五郎はこのとき25歳。4歳で父に、21歳で母にそれぞれ死に別れ、その後眼病を患って全盲となり、さらに神経質関節炎によって「哀れな躄り」となった。

 ・・幸少なき運命に呪はれた私は、ただ信仰に生きるより外道なきと、大正十二年四月五日住みなれし岡山の我家をあとに、とめどなく流るる涙を払ひ、泣く泣く諸国の御仏の巡拝に旅立ちました。自分ながら哀れな躄り、ある時は星を頂き、又或る夜は川辺に、悲しき水の音、草の一夜の宿を借りつつも、西国巡礼させて戴き、廻りまはって美濃の国谷汲山観世音菩薩へ御詣り致しました。

 そこで岐阜の者から「知多郡新四国弘法大師様こそ御利益あああらたかとの事を聞き知り」、ある「情け厚き人より一匹の犬を賜り」、その犬に曳かれて知多郡西浦番外札所曹源寺のある大谷の集落までたどり着いたのが大正12年11月7日。宿に泊まったその夜、夢に弘法大師が現れて「やよ信ずる人よ、御身明日番外の御坊の前にいたれば日頃の信仰により御身の難病はたちどころに去る可し、車は捨つるべし」と言って消えた。そして朝まだきに宿を出て曹源寺の門前で奇蹟は起きた、と縁起は記している。

金鈴山 曹源寺(常滑市大谷)に奉納された躄車

 筆者は2022年の春、たまたま『奈良県警察史 明治・大正編』で見つけた行き倒れの巡礼女性の最後の数日を歩いてみたことがある。秋田県出身の菊池はる(38歳)は梅毒に罹患して故郷を離れ、二度と帰らぬ巡礼となった。彼女が死んだ1926(大正15)年にはまだ梅毒の治療薬はなく、細菌のために鼻が欠損することなどもあってハンセン病と同一視されることもあった。飛鳥の岡寺に参拝した後に彼女は倒れ、その虫の息の身体を迷惑がった村人たちによってたらい回しにされ、最後は吉備池廃寺跡付近のさみしい道端に棄てられ、息絶えた。彼女はいま吉備の蓮台寺で眠っている。

 有名な映画『砂の器』で、ハンセン病になった父が幼い息子を連れて故郷の村を捨て漂泊の旅に出たのは1938(昭和13)年という設定になっている。『砂の器』は作家・松本清張による創作だが、明治・大正・昭和にかけてかれらのように帰ることのない巡礼の旅に出た者たちは、きっと数多くいたことだろう。あまたの本浦千代吉や菊池はるや岡田長五郎たちがこの列島の闇をころげまわっていた。病から回復していざり車を奉納した長五郎は幸いだった。多くの他の長五郎たちは旅先で行旅死亡人としての死を迎えたことだろう。

鴨居の額に飾られていたためこんな形でしか撮影できなかったが、奉納された岡田長五郎本人の写真。百年の歳月のために劣化してほとんど見えないが、右下に寄り添う犬の姿が分かるだろうか。


 いざり車をよく見ると、使われている材は薄っぺらな木板で25歳の青年の身体を支えられるほどの強度があっただろうかと心配になる。しかし車軸は鉄製で、丸太をつかった車輪のぐるりにも鉄の板が巻かれている。おそらく下り坂のためだろう、やはり鉄製のブレーキも備わっている。

 高阪 謙次氏の『「いざり車」とその周辺』には人に曳かれるタイプ、棒を使って自走するタイプ、あるいは小屋に車輪がついたタイプなど、さまざまな絵巻や図絵や漫画に描かれたいざり車が取り上げられている。両手に下駄をつけて地面を蹴って自走するものもあったらしい。

 今谷逸之助氏の『大阪に於ける浮浪癩患者』(『社會事業研究』1937 大阪社會事業聯盟発行『近代庶民生活誌20』)には、毎月21日の四天王寺の「お大師様の日」に阪神各所に住む浮浪患者たちが多数集合して物乞いをする風景が描かれている。「犬車を以てすれば、神戸大阪間を三時間にて走破し、朝神戸を出て午前九時頃より天王寺にて物乞いし、午後は神戸に帰っているのである」(大阪天王寺の癩) 神戸=大阪間を三時間で走破するいざり車とは、どんな形状をしていただろうかと空想してしまう。

手塚治虫「来るべき人類」(1956年)に登場するいざり車

 親切な若い僧侶と住職に重ね重ねお礼を言って曹源寺を辞し、知多半島をさらに南下して向かった第二の目的地は、南知多町の中之院である。隣接する尾張高野山宗総本山・岩屋寺に設定した車のナビは、途中から海岸線を離れて内陸の山道へと誘導する。岩屋寺の広々とした駐車場に車を停めさせてもらい、立派な伽藍とは反対方向の道へ進むと、コンクリートの山肌の斜面の下にそれは忽然と現れた。

中之院(南知多町) 軍人像

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