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吉野川を挟んだ下市と大淀の二町をあるく(後編)【My Dark Tourism 奈良】

 さて、あらためて近鉄・下市口駅前に集合して午後の部、県立同和問題関係史料センター主催の歴史ツアー二回目の始まりである。時刻は13時半、参加者20数名、それにセンターのスタッフが4名、県庁から2名、総勢30名近い陣容だろうか。午後からは吉野川の北側、大淀町のエリアをまわる。

 ここも対岸の下市町とおなじように、北からの街道筋が東西に通じる伊勢街道と交わり、吉野川の渡し場なども賑わう吉野の玄関口として古くから栄えた。江戸時代に盛んだったお伊勢参りの道筋は吉野川の北と南にあり、そのうちこの大淀を通る北沿いの道は紀州藩が参勤交代で使用して、藩直轄地の村もあったことでも有名だったという。

 駅横の踏切をわたって、隊列は勾配のある坂道を登っていく。すでにほとんど休憩もなく3時間をあるきつづけてきた足には、のっけから少々つらい。

下市口駅前でツアーの概要説明

 さいしょにたどり着いたのは桧垣本(ひがいもと)八幡神社。境内はかなり広く、森とした木立のなかを長い参道が奥へつづいている。この桧垣本には大和四座とともに活動していた吉野猿楽の一座があり、室町時代から吉野を中心に活躍していたという。ここは一座ゆかりの神社であると伝わる。配布資料から一部を引こう。

『春日若宮神主裕光日記』によると、1404(応永11)年、春日大社に参拝した吉野猿楽の一座があり、桧垣本猿楽座であると考えられている。また、ほぼ同時期の吉野山金峯山寺の記録に、桧垣本座が年中行事において、栃原座と共に猿楽を演じた記事が残されている。

 吉野山の吉水神社には「桧垣本七郎」作の2つの面が残されており、面裏には「ヒカ井モト七郎作」の銘と明応2(1943)年の年号が読み取れる。また、石川県金沢市の尾山神社に藩主前田家から奉納された「悪尉(あくじょう)」の面にも七郎の刻銘があり、桧垣本猿楽座の活動範囲が北陸にまで広がっていたことを示している。座からは「彦四郎」と呼ばれた笛の名手、戦国時代に活躍した太鼓の名人「国広」も輩出され、囃子方の源流の一つと見なされている。

令和4年度 県民歴史講座 資料

 桧垣本猿楽座は江戸時代になると幕府からの統制によって縁のあった観世家を頼って江戸へ移住したために、現在ではかつての芸能民にゆかりのあるものは、この桧垣本にはなにも残っていないらしい。ただ高台のこの広大な森だけが当時の息吹を宿している。

桧垣本八幡神社前の説明板
桧垣本八幡神社境内


 つづいて向かったのは、桧垣本八幡神社の北に隣接する大淀町の役場・文化会館・図書館が立ちならぶエリアである。4階建ての役場に、ホールと図書館を併設した町文化会館が隣接しているこの敷地はそのまま、かつて桧垣本八幡神社の池で、大池あるいは宮池と呼ばれ、この地域の稲作を支えてきた。

左は国土地理院の航空写真、右は現在のグーグルマップ。

 配布資料によれば、この池の畔に屠殺場があったそうだが、明治時代の申請関係書類が個人宅に残っていることから明治年間に設置されたと考えられるだけで「廃止になった時期も不明で、戦後しばらく存在していたと記憶する人がいるものの、書面上の記録は残っていない」。その唯一のよすがが役場の西、児童公園向かいの空き地にある「畜魂碑」である。碑の裏面には昭和52(1977)年の町長銘があるので、役場の建設か、それ以前の池の埋め立てに併せて設置されたものだろうか。以前は役場の敷地内にあったそうだが、何やらもてあまして空き地のすみに仮置きしているといった印象も受ける。そのうちになくなってしまうのだろうか。

桜ヶ丘第1児童公園の向かいに移設された「畜魂碑」

 わたしも後日にこの屠殺場に関する資料がないか、国会図書館などのデータも含めて調べてみたが、残念ながら何も見つからなかった。深澤所長の話では、津風呂ダムの工事の労働者たちがバケツで内臓(ホルモン)を買いに来たという話も残っているそうだ。津風呂ダムの建設は1954(昭和29)年から1962(昭和37)年のことである。ちなみにこの時の工事で移転を余儀なくされた住民の一部が、奈良競輪跡地であった現在の奈良市山陵町に移住し「津風呂町」地区を拓いた。奈良大学の南側に記念碑がある。

奈良市山陵町の「津風呂町由緒」碑

 陣列はつづいて集落の路地を、ふたたび駅の方角へゆるやかに下っていく。万行寺は浄土真宗本願寺派、かつてここは地区ではじめての小学校が設立された場所であった。大正から昭和にかけて、再建された「大和同志会」の副総理や、大淀町の区長、町長などを務め地区の振興に貢献した東清吉の碑が境内にある。以下、配布資料から引く。

 「大和同志会」とは、部落差別撤廃を目的にして大正元(1920)年8月20日に結成された団体である。(中略) 大淀村(1921年から町制)では、大和同志会発足前から県の矯風事業に協力して区政の指導者となった北川岩松がいた。北川の遺志を継ぐ形で活動したのが東清吉であり、彼によって被差別部落住民の生活を高め、安定させようとする取り組みが進められた。東清吉は再建大和同志会の幹事長の役職となり、同11年から副総理となった。東は、小学校児童の補習教育を進めるための青年会館の建設、共同浴場、共同井戸の改築・改修、託児所や養老院の設立など、地域の振興に尽力した。

令和4年度 県民歴史講座 資料
万行寺境内 東清吉君頌徳碑


 万行寺から引き続き、住宅地の間を下っていくと下渕八幡神社の裏手に出る。ここには「遥拝所」と書かれた、どこか無骨な石碑が本殿の横に建っている。「大正年間、奈良県内において明治神宮を遥拝するための遥拝所が、複数箇所で建立された。この碑も東清吉の主導により建てられたが、その背景には、当時県が被差別部落を対象として神祗信仰導入を進めていたことと関連があるものと推測できる」(配布資料)

 部落の人々は従来より仏教の信仰は篤かったが神、特に天皇制についてはそれほど浸透していなかった。先の大戦下でアメリカに暮らす日系人の若者たちが率先して米軍に入隊し、危険な前線へ出て行ったのと同じような気持ちが、この碑を建てた者たちにもあったかも知れない。

 本部落(原文ママ)ノ常トシテ敬神思想ノ薄弱ナルヲ憂ヒ、大正七年四月 明治天皇遥拝所ヲ建設センコトヲ発議シ、仝者ト共ニ寄附ヲ募リ自ラ壱百円ヲ寄附シ総額四百五拾円ヲ以テ建設完成セリ、爾来毎年祭典ヲ執行シ区民ノ敬神思想ヲ養成ニ努メツツアリ

奈良県社会課「矯風事務書類」 1920年
下渕八幡神社境内の「遥拝所」裏面

 下渕八幡神社の正面にあたる長い参道の石段を下ると、下市口駅の裏手である。踏切をわたり、かつて町立大淀病院があった広い跡地を横目に簡易裁判所の横を吉野川の方へ下りていくと鈴ケ森行者堂である。

鈴ケ森行者堂

 御所方面から峠を越えてくる国道309号線が下渕にさしかかるあたりに「車坂峠」の名称がついた交差点がある。そこから300mほど北へのぼった現在、石塚遺跡と呼ばれる場所からこの行者堂は移築された。そこはかつて関西から大峰山へ向かう修験者の一之行場跡といわれる重要な場所だったが、1913(大正2)に吉野鉄道が開通すると通行が途絶えたために1938(昭和13)年に吉野川沿いの現在地に移されたという。正面の石灯籠には鎌倉後期、1315(正和4)年の銘がある。

 行者堂からすぐ下の棚地へ下りて、吉野川の広い景色を見ながら、吉野川分水と渡し場について説明を受けた。

 奈良盆地を自転車で走っていると、あちこちで「吉野川分水」という言葉に出遭う。奈良盆地はもともと降水量が少なく、水田経営のために6千数百か所もの溜池がつくられて水不足に対応してきた経緯がある。一方で奈良県南部の大台ケ原一帯は日本でも有数の降雨地帯だ。この大台ケ原から吉野川へ流れ込む水を奈良盆地へ引き込めないかという目論見は江戸時代から何度もあったそうだが、どれも実現しなかった。

 吉野川上流にダムを建設し、水量を確保しつつ吉野川から奈良盆地へ水を供給するといった形で計画が動き出したのは戦後の1950(昭和25)年。ダム建設を先行させながら分水路の工事を進め、総延長336キロの水路を含む全ての工事が完成したのは1987(昭和62)年のことだった。東は奈良市から桜井市、西は王寺町から御所市に至る奈良盆地の広大なエリアを網羅する分水路の、最初の取水口が下渕頭首工という名で行者堂のすぐ南に設置されている。

下渕頭首工

 もうひとつは、かつて橋のない時代に「檜の渡し」として賑わった渡し場も、場所は定かではないがこのあたりにあったという。その後、江戸末期に木製の橋が架けられ、1892(明治25)年に鉄橋に改造、流出や改修を経て現在に至っているのが、いまある「千石橋」だという。

初代の木造の千石橋(大淀町商工会青年部:提供)

https://www.library.pref.nara.jp/supporter/naraweb/simoitityou.html

 

 歴史ツアーの最後は、ふたたび近鉄・下市口駅までもどってきて吉野軽便鉄道の遺産である。1912(大正元)年、木材運搬と花見客のために吉野口と吉野(現在の六田駅東)の11.5キロを結ぶ鉄道が開通した。当時の花見客は大阪から王寺、高田、吉野口を経由して吉野(六田)まで鉄道で来て、六田の渡しで吉野川をわたり、吉野山へ向かったそうだ。

 下市口駅にはその頃の引き込み線とホームの遺構が、駅の西側に残っている。深澤所長の話では木材搬出のための引き込み線だろうとのこと。そういえば吉野川は筏流しの歴史も有しているのだ。筏で流した木材を現在の千石橋あたりの渡し場で荷揚げし、このホームから各地へ送ったのかも知れない。

近鉄・下市口駅西側 旧吉野鉄道の遺構


 歴史ツアーの陣列はここで解散した。

 ここから先はわたし一人の余談で、午前中に回った下市めぐりで通った藤村酒造の地酒「老松」を買って帰ろうと、廃墟の下渕マーケットの手前に見つけていた酒屋へ歩いて行った。「下市の地酒の老松は置いてますか?」と奥から出てきた店のおばちゃんに訊くと、エリアが違うから置いてない、置いても売れないから、との答えが返ってきた。

 なんか、大淀と下市は仲が悪いのか、なぞと邪推しながら、ここまで来たら意地だ。スマホで調べたところ、下市町の観光サイトに千石橋のたもとにある「下市町立アメニティセンター せせらぎ」なる施設があってお土産が買えるとあったので、ひょっとしたらここに置いているかも知れない。橋をわたってすぐならホンの数分のことだしと、ふたたび千石橋をわたっていったのだが、辿り着いた「アメニティセンター せせらぎ」はすでに廃墟であった。

 吉野川を渡ったら何やらもう引くに引けなくなって、そのまま下市町のメイン通りを進んで行く。蛭子神社の向かいに酒屋があったので入ってみた。さすがに地元の酒屋なら地元の酒を置いているだろうとほとんど確信をしていたのだが、やはり奥から出てきたおばちゃんは「むかしは置いてあったんだけど」と言う。「もう、つくってないんですかね、藤村酒造さんは」とわたしも半ば投げやりで、「いえ、つくってますよ。でもこの頃は人口も減って、お酒を飲む人も減ってきたんで」 ここまで来たら当の藤村酒造までもあるいてあと10分ほどなのだけれど、6時間近く歩き続けてきた上に、少々こころまで砕けてきてしまった。「他のお酒ではどれがおすすめですか?」と訊いて、おばちゃんが指したやたがらすの特別純米酒をひとつ買って駅へもどったのだった。

 西日がさし始めた四度目の千石橋の上をわたりながらわたしは、「老松」を買いにいつかまたこの町を訪ねるような予感がしていたものだ。

千石橋から五条方面


 最後に、一部では話題になった大淀町のPR動画「大淀少女」をどうぞ。



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